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「多様性」という言葉が思考を停止させる

 妻に勧められて、朝井リョウ氏の『正欲』を読んだ。

 3年半前に出版されているが、どうして今の今まで読んでいなかったのだろうと後悔するほど良質な内容であった。私が「多様性」という言葉を聞いた時に覚えた違和感を、物語形式で言語化してくれたことに感謝したい。



皆マジョリティでマイノリティ

 私は飲み会の場が苦手だ。興味のない人からプライベートを根堀り葉掘り聞かれるのが耐えられない。仕事上の関係で、どうして恋愛の話題を広げなければならないのかが理解できない。しかも大にして異性愛を前提にした話なのである。その類の話は、もっと気のおけない関係でやってほしいものだ。

 ただ、このようなタイプの人間には殆ど会ったことがないので、いわゆる「マイノリティ」と呼ばれる部類なのだろうと思う。一面的にはマジョリティに属する自分でも、他方ではマイノリティに属することがあるように、様々な側面を勘案すれば、皆マジョリティかつマイノリティだと思うのだ。


「多様性」という"大きな"言葉

 私たちは本当に多様性を受け入れられるのだろうか? 無意識に他人へ、異性愛を前提とした恋愛話を振ったりしていないだろうか? あるいは自分の常識を他人に押し付けてしまっていないだろうか?

 過去にも記事を書いたが、市川 沙央 氏の『ハンチバック』を読んだ時に、あまりにも自分の知らない世界が確かに存在していたことと、自分が何気なく感じていたことがいかに傲慢であったかを思い知らされた。

目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

市川 沙央『ハンチバック』より

 「多様性」というのは、意味の範囲が広い抽象的な言葉であって、無意識的に多用するのは危険だ。このような類の言葉は、物事を簡潔に理解しまとめるのには非常に役立つが、今目の前で起こっている事態に対して殆ど効力を発揮しない。議論の議題としては良いかもしれないが、その結論に「多様性」という言葉が使われてしまったら元も子もないと思うのだ。


共感だけでなく理解を

 多様性をより正確に理解していくためには、個別具体的な事象にあたっていくほかはない。そのためには、様々な人々との交流を重ねたり、普段読まないような本を読んだりすることが必要なのだろうと思っている。

 自分が想像できる人間というのは、自分がこれまでに見聞きしてきた人間の範疇でしか存在し得ない。自分とは真反対の人間も居るのだということを実感を持って知ることが、多様性認識への第一歩だと思う。これまで自分が当たり前のように考えていた価値観をいったん据え置き、自分の価値観と照らし合わせて共感することだけではなく、他人の価値観の存在を理解しながら、自分の価値観との相違や距離を冷静に推し量ることが、多様性を標榜する社会には不可欠だと思う。そのための素地が現代社会に整備されているかと問われると、私はとても肯定できない。まずは身近なところから理解していくことが大事なのかなと思う。


終わりに

 もちろん私も多様性への認識が甘い部分も多いと思っているし、日々その意識を実践できているとは言えないと思う。だからといって、それを諦めてしまったら何も進まない。この道のりに終わりはなく、常に自分の中にある「人間」像を更新してゆかなければならない。それはこの社会に生きる人間にとっての使命なのかもしれない。

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