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生成AIに感じていた気持ちの正体

明けましておめでとうございます。
ずっとご無沙汰していたnoteですが、どうしても書きたいことができたので久々に。ペースは分かりませんが、今年はnoteも書いていきたいと思っております。気が向いたら、読んでいただけたらうれしいです。

1月2日、小説家で理系ライターの寒竹泉美さんが、戯曲の翻訳家 平野暁人さんのnoteをXでシェアしてくださっていたのを読んで、戦慄を覚えた。
お正月気分から一気に目が覚めたというか、冷水をかぶった。

昨年生成AIを音声起こしや要約、推敲に使っていて、ずっと感じていた感情の正体に気がついたからだ。翻訳家だけでなく、書く人全員が知っておくべき内容ではと感じてすぐに私もシェアをしたけれど、数分後に取り消した。

「今年は翻訳をがんばる」と話していた友人の顔が浮かんだからだ。シェアすることで、せっかくがんばっている友人の希望を折ってしまうのでは、傷つけてしまうのではと思った。

でも2日たって、その友人にも、ライター仲間にもやっぱり知ってもらいたいと思ったので、私が感じた正直な気持ちと共にシェアします。
不快、不安な気持ちにさせたらごめんなさい。いたずらにそんな気持ちにさせたいわけではなくて、でもきっと、「書く人」みんなが危機感を持っておくべきことではないかと思ったので。
(すでに読まれているかもしれませんが)

読んで私は、ずっと生成AIに感じていた感情が「畏怖」だったと気がついた。


2024年の年明けは、生成AIのことを、「よき編集者」「よきパートナー」だと感じていた。書き上げた原稿を永遠にブラッシュアップさせてもらえる、絶好の相談相手ができたと思ったし、いろんな人にそう勧めた。

「いずれ人間を追い越す」なんて言われているけれど、そんなことはない。便利でありがたい存在だ。心からそう思っていた。

数ヶ月前、現在通っている『書きたいを書けるに変える創作講座』のアルムナイ講座でお話をさせていただいたときも、「生成AIの登場で、誰もが、多くの媒体に合った文章が書けるチャンスが広がったのではと感じています」と話した。
本音だ。


でもここ最近、その気持ちに、雑音のようなものが交じるのを感じていた。
生成AIの精度が恐ろしいスピードで進み、軽々と私の稚拙な文章を超えていく。日々のプロンプトのやりとりで、その足音が少しずつ、聞こえてきている実感があったからだ。

平野暁人さんのnoteを拝読して、早ければ今年のうちに追い越される未来は来るのではないか。そんな予感が湧いてきた。
そして、この部分。

それではなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。
それでもなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。
ほかでもなく、人間の側が翻訳に対する要求水準を下げ始めたからである。

「(ちょっと変だけど)これでもわかるし」
「(間違いもあったけど)だいたい合ってるし」
「(この程度の修正でなんとかなるなら)わざわざ専門家に発注しなくても」
機械の意図を汲みにゆくことで
機械の精度に合わせて降りてゆくことで
人間が人間を終わらせ始めている。

平野彰人さんnote「もうすぐ消滅するという人間の翻訳について」より

ここを読んで、ハッとした。まさにそうしている自分に気がついたからだ。生成AIと向き合うとき、私自身が降りていって、機械の意図を汲んでいる。つまり、自分自身が文章に対する要求水準を下げている。

話は少しそれるかもしれないけれど、実はここ最近、自分が文章を「読み飛ばして」いたのではないかと反省したことが3回重なった。ライターという職業人にあるまじきことだけれど、多くの情報に触れ、それを読むスピードが上がる代わりに、「じっくり」読んで考えることができなくなっていないか。そう感じて深く反省した。

本も文章も、「自分との対話」であるべきだと思っていたのに。自分に心底がっかりすると共に、今一度姿勢を正したところだった。

けれど。タイパの時代、「文章に対する要求水準を下げる」傾向は残念ながら存在している。その流れが、「書く」さまざまな仕事を奪うあと押しをしていくのではないか。いつまで生成AIは、「よき編集者」「よきパートナー」でいてくれるのだろう。

いたずらに悲観したいわけではなく。
多くの識者の方がおっしゃっているように、個人の「体験」から得られた体温が伴った文章の価値が消えることはないのかもしれない。ユニークなストーリーや知恵が詰まった「本」の価値も。でもこのnoteを読んで、そして生成AIを使っている体感から、緻密な精度で表現できる未来が近づいているのでは……という考えが頭を離れなくなってしまった。
人格や経験、ぬくもりを伴った文章、そして創作の分野さえも、生成AIにやすやすと書きこなされてしまうのではという畏怖。

手作業から大量生産へ移り変わった産業革命のときのように、翻訳家だけでなく、自分が生業にしているライターという仕事、書く仕事のフェーズが早晩、大きく変わると思う。それは今年のうちかもしれない、とも。(いわずもがな、たくさんの方が指摘していることですが、ポンコツな私のお腹には今落ちました)

そのとき、一介のライターである自分はどうすればいいのか。できればずっと文章を書いて暮らしていきたいけれど、本当に闘えるのか。それとも、立ち位置が変わっていくのか。
そうなったとき家族を、息子を養っていけるか。

年末にライターの師匠である、さとゆみさんに毎朝のエッセイ『今日のコレから』のZINEを送っていただいたときに添えられたメッセージに、「必要なのは、投資と複利の考え方じゃないかと最近思っています」と言う言葉があった。(ありがとうございました!)私にとってのその答えをずっと考えていて、そこにも、上記の問いを踏まえなければいけないと。切実に。

考えることを止めずに、2025年は動いていきたい。悲観せず、でも目を背けず、正しく危機感を持って。



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