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「非言語コミュニケーション」高知大学人文社会科学学部国際社会前期2017年

(1)問題

次の文章を読み,あとの設問に答えなさい。(100点)

① いまふたりのひとがいる。そのあいだに交わされることばはない。ふたりのあいだの沈黙。それが深い沈黙,厚い沈黙とでもいうべきものであって,会話の不在でないというのはどうしてなのだろう。ことばの不在が空虚ではなく,おしゃべり以上に充溢(じゅういつ)していることがあるのは,どうしてなのか。

② ひとはふつうことばの不在を懼(おそ)れる。ことばが途切れたとき,そしてどちらからもとっさにその不在を埋めることばが出てこないときの気まずい沈黙。そのとき,なにかそれまでの関係がすべて作りものであったかのように,色褪せてくる。他者の親密な感触というものが,あっけなく崩れる。その不在の前で,じぶんの存在すらも,へちまのようにすかすかになっている……。

③ ひとはこういう空虚に耐えきれず,どうにかしてことばを紡ぎだそうとする。だれが話しているのかじぶんでもよくわからないようなことばが,次から次へと虚空に向かって打ち放たれる。が,そのことばは相手のうちに着地することなく,かといってじぶんのもとへと戻ってくるわけでもなく,ただ空しい軌跡を描くばかり……。そして,ことばではなく,その不在だけがしらじらとあらわになってくる。まるで,唾が涸れたときにそれでも唾を吐きだそうとして,血痰を出してしまうかのように。そしてじぶんは,一刻でもはやく,その場を逃れたがっている。

④ わたしたちがいま失いかけているのは「話しあい」などではなくて「黙りあい」なのではないか。かって寺山修司はそう問うた。そして,週刊誌やテレビなどのメディアをとおして大きなコミュニケーションが膨れあがればあがるほど「沈黙は死んでゆく」,「黙っていられない」ひとたちが増えてゆく……として,つぎのように書いた。

彼等はつぎつぎと話相手をかえては,より深いコミュニケーションを求めて裏切られてゆく。そして,沈黙も饒舌も失ってスピーキング・マシーンのように「話しかける」ことと「生きること」とを混同じながら年老いてゆくのである。(「東京零年」)

⑤ しゃべればしゃべるほど空しい気分になる経験,それを押し殺してしゃべるのが人生だ,と言うつもりはないが,ことばがまことのそれであって空語でないという確信を,ひとはどういうときに得るのだろうか。意が伝わらないもどかしさにしだいに声を荒げるひと。かれの声が大きくなるにつれて,そのもどかしさは昂じても消えることはない。逆に,深い沈黙のなかで,ひとは語りつくすことに劣らぬ濃密な交感にひたることもある。

⑥ R・D・レインという精神科医が,『自己と他者』(志貴春彦・笠原嘉訳)のなかでこんな話を報告している。ある看護婦が,ひとりの,いくらか緊張病がかった破瓜型統合失調症患者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから,看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は,お茶を飲みながら,こういった。(だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて,これが生まれてはじめてです〉。

⑦ だれかにお茶を入れること,これはだれもが日常的にしていることである。この患者とていままでに一度も他人にお茶を入れてもらった経験がないわけではないだろう。ではどうして,これを「生まれてはじめて」と感じたのだろうか。

⑧ レインはこう解釈する。あるひとがわたしに一杯のお茶を入れてくれるばあい,そのひとはわたしの気を惹(ひ)こうとしているのかもしれない。わたしを味方につけようとしているのかもしれない。わたしに親切にしておいて,あとからなにかをせびろうという魂胆があるのかもしれない。あるいはじぶんの茶碗やティーポットを見せびらかしていることもありうる。あるいは,あるいは……。だれかにお茶を入れるということ,そのことが,他人に求められたからでなく,業務としてでもなく,もちろんティーセットを自慢するためでもなく,「だれかのため」「なにかのため」という意識がまったくなしに,ただあるひとに一杯のお茶を供することとしてあって,そしてそれ以上でも以下でもない,そういうふうにして他人にお茶を入れてもらったと患者が感じたことはこれまでなかったというのだ。

⑨ ことばもなく,ただお茶を供するだけの行為が,どうしてこうも深い充足感をもたらすのだろうか。間がもたない、間をとれないという,わたしたちが日々,他人との会話のなかで味わうあのぎこちなさとは,およそ正反対の時間である。

⑩ ことばの不在がわたしたちの意識をこわばらせるということ,あるいは間がもたないというあの居心地のわるさ,そのなかで沈黙がことばをしっかりと裏打ちし,ことばが沈黙をより厚くするというような,沈黙とことばとの折りあいというのはどのようにしてわたしたちのものとなるのか。
(出典:鷲田清一『「聴く」ことの力――臨床哲学試論――」筑摩書房、二〇一五年。ただし,出題にあたり,全体の趣旨を損なわない範囲で一部変更した。)

設問 本文の内容を踏まえたうえで,言葉を介さない「非言語コミュニケーション」について具体例などを挙げながら、あなたの考えを800字以内で述べなさい。

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(2)解答例

 ひとは神経症の患者に対し言葉では好意的な態度で接するが、内心では精神的な距離を保っている。それが時として態度に表れる。このようなギャップにこの患者は深く傷ついていたのかもしれない。しかし、看護師のお茶を供するという非言語的な厚意に対して、いたわりや慰めを感じ、不一致が解消された結果、「生まれてはじめて」という感興を持ったと考えられる。
 非言語コミュニケーションの例として、しぐさや表情が挙げられる。気分が落ち込んでいるときに、友人から肩をポンと叩かれると、言葉による慰め以上に励まされた気持ちになる。面接試験で緊張して部屋に入ったとき、面接官が笑顔を差し向けてくれて、緊張が一気にほぐれたことがある。このように、特に好意的な気持ちはしぐさや表情ですぐに伝わり、相手が落ち込んでいたり、不安に駆られていたりするときに効果的である。
 言語と非言語によるコミュニケーションの違いを考える。言葉は時として嘘がある。レトリックなどの表現法などの高度なスキルを必要とする。情報を伝えるのに時間がかかる。対して非言語コミュニケーションは比較的ストレートに感情が表出する。言葉を話せない赤ん坊でも母親と豊かなコミュニケーションをとることができ、情報伝達の即効性がある。
 医療の現場では、言葉による情報伝達が基本となる。しかし、患者の心の機微に触れる深刻な事態に際しては、しぐさや表情などの非言語によるコミュニケーション手段を積極的に活用するべきである。病気と闘う患者はともすれば、孤独に陥りがちである。そんなとき、私がそばにいるよ、あなたのことをいつも気にかけているよ、というメッセージを言葉に加えてしぐさや表情で伝えることで、患者は安心して治療に協力してくれるだろう。私は将来、医療の現場に立ったとき、言葉と非言語の双方を使いこなせるコミュニケーションの達人になって、患者のそばで支えたい。

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