「自衛戦争は正しい戦争か」静岡大学人文社会科学学部後期2016年
(1)問題
「自衛戦争は正しい戦争か」について書かれた次の問題文を読み,設問に答えなさい。なお問題文を引用するにあたっては,原文を一部改めた。
[問題文]
① 国連憲章によると,自衛権は国家「固有の権利」(憲章仏語版では「自然権〔audroit naturel〕」)である。これが意味することは,自衛権それ自体は憲章が締結される以前から各国家に備わっており,憲章は単にそれを追認したにすぎないということだ。しかし,考えてみると不思議な話である。国家は人間が生み出した人工物にすぎないのに,どうしてその権利が「自然的」などといえるのだろうか。
② 以上の問いに関して,正戦論者はひとつの答えをもっている。すなわち,国家の権利に先立って,本来存在するのは個人の権利である。確かに,人間一人ひとりが天賦の(天から授かった)人権として,自己の生命に対して不可侵の自然権をもつという考えは,ごく一般的なものである。日本国憲法にも,基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」だと規定されている(第11条,第97条)。しかし国家は違う。国家はある時点で誰かが人工的に,この世に生み出したものである。それではどのような経緯で,人工物である国家が擬似人格的な権利主体になるのだろうか。
③ 国家の設立の経緯を振り返ってみよう。例えばフランス人権宣言(第2条に)は,次のようにある(高木八尺(やさか)他編『人権宣言集』131頁)。
あらゆる政治的団結の目的は,人の消滅することのない自然権を保全することである。
これらの権利は,自由・所有権・安全および圧制への抵抗である。
④理屈はこうである。個人は自己の生命に対して不可侵の自然権をもつが,その権利を実効的に守るためには,何らかの強制力を備えた保障主体が必要になる。そこで人々は,自らの自然権を保障するために団結し,集団的に国家を形成することに同意するだろう。国家の存在理由は,国家が個人の権利を個人に代わって保護することへの個人一人ひとりの同意に依拠している。こうして,国家に先立つ個人が権利の究極主体として国家を設立したというのが,近代社会契約の論理である。
⑤ この論理に基づけば,国家がその身を守ろうとするのは,ひとえに個人の身を守るためである。本来存在するのは個人の権利の方であって,国家の権利はその信託を経て生まれたにすぎない。ヴァッテル(注2)が言うように,「あらゆる国民は自己を保存する義務がある……この義務は神が創造し給うた個人にとっては自然的なものであるが,国民にとっては自然に直接由来するのではなく,市民社会が形成される契約に由来するのである。したがって,それは決して絶対的なものではなく,条件的なものである。つまり,それは人間の行為すなわち社会契約を前提としている」(「『国際法』2」315頁)。
⑥ まとめると,国家の権利の価値は,個人の権利の価値に依存し,そこから導かれるというのが,社会契約の論理が意味していることである。前者の保障が重要なのは,ひとえにそれが後者の保障に役立つからである。個人の権利はそれ自体で価値があるが,国家の権利はそうではない。それは束の間,契約に基づいて成立しているにすぎない。
⑦ (1)ただしそうだとすると,社会契約の論理に従えば,ある場合には国家の自衛権が無条件に成立するとは限らなくなる。なぜなら,フランスの思想家J・J・ルソ一がよく承知していたように,「ときには,国家の構成員を人も殺さずに国家を殺すことができる」からだ(『社会契約論』25頁)。X国がY国を侵略したとしよう。Y国政府は徹底抗戦の意志を示しているが,もし自衛戦争に踏み切れば,Y国民のあいだに多大な死傷者が生じることは確実である。こうした場合,それでもY国政府は自衛戦争に踏み切るべきなのだろうか。はたして一国家が地上から消えることは,一個人が地上から消えること以上に悪いことだろうか。
⑧ 正戦論者の答えは簡明(かんめい)直截(ちょくせつ)である。それでも国家の保全なしに,個人の保全はありえない。それはそうだろう。それが当初の社会契約の契約内容であったのだから。次の問いは,この保全者が自衛国である必然性があるかどうかである。X国に侵略されたY国が,Y国民の唯一無二の権利保障主体ならば,Y国が敗北し消滅すれば,Y国民は無権利状態に陥る。Y国民の権利を保障する唯一の手立ては,Y国の領土と主権を保全するための自衛戦争に踏み切ることである。Y国の国家的権利と,Y国民の個人的権利は,いわば一蓮托生である。しかしながら,必ずしも以上の推論が当てはまらない場合も多い。第1に,自衛国YがY国民の唯一の権利保障主体であるかどうかは定かではない。侵略国のX国は,Y国の統治体制に攻撃を加えているのであって,Y国民を一人残らず殲滅(せんめつ)しようとしているのではない。侵略によって政府は転覆され,指導者は追われ,武装解除されるかもしれない。しかし,X国は個々のY国民の生命を直接の攻撃対象としているのではない―あるいはその場合,侵略ではなくジェノサイド(集団殺害)(注3)と呼ぶべきだろう。大半の侵略はジェノサイドの類のものではない。Y国民は権利の保障主体として,Y国ではなくX国に新たな庇護を求めるだろう。
⑨ 第2に,自衛国YがY国民の最善の権利保障主体であるかどうかも定かではない。確かに,Y国民がはじめに頼るべきはY国である。しかし,Y国民が被るいかなる人的・物的被害も省みず,Y国政府がX国に対する自衛戦争を強行するとなれば,話は別である。Y国民は考慮の末,自衛よりも降伏の方を望むかもしれない。フランス人権宣言にあるように,一国家の設立目的が「人の消滅することのない自然権を保全すること」だとするならば,その国の政府が,自国の領土と主権を遮二無二守るために国民の犠牲を要求することは,当初の設立目的と根本的に矛盾している。
⑩ Y国がY国民の唯一の権利保障主体であるとも,さらには最善の権利保障主体であるとも,必ずしもいえないにもかかわらず,X国の侵略戦争に対するY国の自衛戦争がなぜ正当であるといえるのだろうか。ひとつの可能性は,そもそもY国の自衛戦争の目的は,Y国民個人の生命を保全することに尽きないということだ。むしろ多くの場合,(2)その目的は,Y国民が集団的に形成するコミュニティ(注4)の存在を保全することである。だからこそ参加するのだし,Y国政府も国民にそれを要求しうる。
⑪ 評論家の福田恒存は次のように言う(「平和の理念」326頁,表記は変更した。
命に替えても守りたいもの,或は守るに値するものと言えば,それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり,そこから生じた文化的価値でありましょう。その全部とは言わないまでも,その根幹を成すものをすべて不要のもの,乃至は悪いものとして否定されれば,残るものは生物としての命しかありますまい。
⑫ これは検討に値する主張である。なぜなら,Y国民の安寧は,侵略国Xが提供しうる生命の安全以上のものを必要としているように思われるからである。あらゆる個人にとって,自分が帰属するコミュニティは,言語・習慣・宗教・文化・経済の基盤であって,その価値を低く見積もるべきではない。コミュニティを抜きにして,個人が十全な人生を送ることはできないのである。侵略と併合によりX国の新たな統治体制に組み込まれるならば,たとえY国民の生命が無傷であっても,そのコミュニティの基盤は消滅の危機に瀕(ひん)する。しかもその場合,最大の被害者となるのは,適応能力に優れた知的・文化的エリート層ではなく,所与のコミュニティの存在に依存する度合いの高い一般市民層である。
⑬ それゆえ,国家自衛権を擁護するため,個人の権利ではなくコミュニティの権利に訴える議論にはより見込みがある(ウォルッァー『正しい戦争と不正な戦争』第4章,同『政治的に考える』第]3章)。ただし,ここにも問題がなくはない。第1に,国内のコミュニティは単一ではない。日本のような同質性の高いとされる日本においてさえ,民族や文化が単一であることはもはや神話でしかない。第2に,このように一国内のコミュニティが多様であるなら,それだけ国家というコミュニティから自衛の必要性も薄められることになる。極例を挙げれば,かりにアイルランドが隣国イギリス領の北アイルランドに侵攻した場合,同地域のアイルランド系住民イギリス側の自衛戦争に積極的に参加する理由がどれだけあるだろうか。
⑭ 結論をいうと,国家の保全と個人保全のあいだの関係は,せいぜいのところ偶然的に留まる。そして,後者と無関係に前者を強弁しようとするなら,コミュニティの保全という別個の観念をもち出す必要がある。もちろん,この説明が成功するかどうかは別問題である。それは依然として,国家自衛権の正当性を示すための有力な説明であるかもしれない。ただしこうした説明は,個人を究極的権利主体であるとする社会契約の論理とは相容れない。コミュニティの権利に依拠した正戦論を展開したいのであれば,それに先立って,個人ではなくコミュニティから出発することについて,別個の論拠を示さなければならない。(出典)松元雅和『平和三義とは何か一政治哲学で考える戦争と平和』(中公新書,2013年),111一118頁。
注
1:国連憲章によると……国際連合憲章第51条第1文は,以下のように定めている。「この憲車のいかなる規定も,国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には,安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間,個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」
2:ヴァッテル Emmerlich de Vattel (1714一1767)。スイス生まれの国際法学者。
3:ジェノサイド|」1際刑事裁判所に関するロ一マ規程第6条は,以下のように定めている。「「ジェノサイト」とは,国民的,民族的,人種的又は宗教的な集団の全部又は一部に対して,その集団全体を破壊する意図をもって行う一行為をいう。」
4:コミュニティ 共同体:特定の文化や価値を共有する集団。
[設問]
問1 下線部(1)について,なぜそうなのか。筆者の見解を120字以内でまとめなさい。(配点25%)
問2 下線部(2)のような考え方自体が抱えている問題はどのようなものか。筆者の見解を60字以内でまとめなさい。(配点15%)
問3 「自衛戦争は正しい戦争か」について,本文の議論を踏まえ,あなたの考えを600字以内で論じなさい。(配点60%)
(2)解説
参考文の内容を少し補足してみる。
●自衛権について
①「国連憲章によると,自衛権は国家「固有の権利」(憲章仏語版では「自然権〔audroit naturel〕」)である。」
「自衛権」とは、国家が戦争する権利のこと。「自衛権」には、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」がある。
「個別的自衛権」とは、外国から攻撃を受けた場合、自国が防衛のために戦争する権利。
「集団的自衛権」とは、軍事同盟国に対して武力攻撃が発生した場合、攻撃を受けた国と共同して防衛のために戦争する権利。
国際連合憲章第 [51条]では、「個別的自衛権」・「集団的自衛権」ともに保障している。
日本では、かつて「個別的自衛権」・「集団的自衛権」ともに保持しているが「集団的自衛権」は行使できない、という憲法解釈であった。
ところが、2014年、安倍晋三内閣は閣議決定で集団的自衛権の行使を一部容認し、2015年、安全保障関連法案を国会で成立させた。
●自然権について
本来は、人間が生まれつき持っている権利、自由権や平等権などを指す。
これは「天賦の(天から授かった)人権」として明治期に日本に紹介され、現在の日本国憲法の原則である基本的人権に発展している。
この人間の持つ権利を人工物である国家が有しているという議論に筆者は疑義を呈している。
●社会契約について
「④こうして,国家に先立つ個人が権利の究極主体として国家を設立したというのが,近代社会契約の論理である。」という文章がわかりづらいが、言い換えると、自然権を守ることは弱い個人では困難なので、人々は自由な個人同士契約を結んで国家をつくった。この場合の契約とは憲法に置き換えてもよい。つまり、国家を成立させる根拠と原理をここでは示している。
●侵略と自衛権について
⑦段落から⑩段落にかけての議論は、X国をアメリカ、Y国を日本に置き換えて、これを太平洋戦争時の状況で考えてみる。
それは⑧段落の「侵略国のX国は,Y国の統治体制に攻撃を加えているのであって,Y国民を一人残らず殲滅(せんめつ)しようとしているのではない。」という文章に示されているように、太平洋戦争は日本のファシズムという政治体制に対して民主主義国家であるアメリカが攻撃を加えているというように読み取ることができる。
次にX国をウクライナに進攻しているロシア、Y国を日本に置き換えて、これを現在の状況に照らして考えてみる。
●戦争の目的
自衛権の自衛とは何を守るのか。
一連の議論で、人々は国家を守るのではなく、自らが属するコミュニティを守るために立ち上がって自衛戦争をする。
これは、⑫段落で書いているように「,自分が帰属するコミュニティは,言語・習慣・宗教・文化・経済の基盤であって,その価値を低く見積もるべきではない。コミュニティを抜きにして,個人が十全な人生を送ることはできないのである。侵略と併合によりX国の新たな統治体制に組み込まれるならば,たとえY国民の生命が無傷であっても,そのコミュニティの基盤は消滅の危機に瀕(ひん)する。しかもその場合,最大の被害者となるのは,適応能力に優れた知的・文化的エリート層ではなく,所与のコミュニティの存在に依存する度合いの高い一般市民層である。」
●結論
以上の議論にみるように、国家が権利主体である個人を守ることによって自衛権を持つとする結論は誤りである。
(3)解答例
問1・問2 省略
問3
筆者は戦争の本質を戦争の目的は相手国の政治体制やその根底を支える思想や主義に対する転覆にあると指摘する。これは太平洋戦争で敗戦した大日本帝国憲法体制下の日本を考えれば首肯でき、連合国の日本占領を「侵略」とするか否かの議論を待たない。
戦前の日本では、国民の権利は「臣民の権利」として法律の範囲内で認められるとされ、治安維持法などによって実質的には大きく制限をされてきた。そうしたなかファシズム体制が進むと、国民は侵略戦争に駆り立てられ、抵抗する者は特別高等警察によって徹底的な弾圧を受けた。こうした国家は国民の権利保護主体としての「唯一」にして「最善」の国家として認めることはできない。したがって、日本は連合国に対して無条件降伏をして、新たなに基本的人権を原理とする日本国憲法を制定して国民との間に契約をし直した。
日本国憲法では戦前の反省を鑑み、平和主義を新たな原則として、武力行使の禁止や戦力の不保持を9条で定めた。自衛権については、個別的自衛権と集団的自衛権を保持するが、集団的自衛権の行使を認めない解釈で運用されてきた。しかし、安倍政権では、これを一部容認し、安全保障関連法で恒常化した。憲法では、専守防衛としての自衛戦争は否定していないが、集団的自衛権の行使を認めると、日本は侵略戦争に加担するおそれがある。今後は安保関連法の運用に対しては国会が厳しく監視する必要がある。
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