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上智大学推薦入試 (公募制) 総合人間科学部看護学科小論文2017年度【学びの本質】

(1)問題

2017年度上智大学推薦入学試験 (公募制) 総合人間科学部看護学科小論文

問 以下の文を読み、あなたの考えを800宇以内で述べなさい。

①「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらずこれを学ぶことぶことがいずれ生き延びる上で死活的な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まります。「学び」はそこからしか始まりません。私たちはこれから学ぶことの意味や有用性を、学び始める時点では言い表すことができない。それを言い表す語彙や価値観をまだ知らない。その「まだ知らない」ということがそれを学ばなければならない当の理由なのです。そういうふうな順逆の狂った仕方で「学び」は構造化されています。

②「学ぶ力」というのは、あるいは「学ぶ意欲(インセンティヴ )」 というのは、「これを勉強すると、こういう 『いいこと』がある」という報酬の約束によってかたちづくられるものではありません。その点で、私たちの国の教育行政官や教育論者のほとんどは深刻な勘違いを犯しています。子どもたちに、「学ぶと得られるいいこと」を、学びに先立って一覧的に開示することで学びへのインセンティヴが高まるだろうと彼らの多くは考えていますが、人間というのはそんな単純なものではありません。「学ぶ力」「学びを発動させる力」はそのような数値的・外形的なベネフィットに反応するものではありません。

③「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。ですから、もし「いいこと」の一覧表を示されなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子どもがいたら、その子どもにおいてはこの「先駆的に知る力」は衰微しているということになります。私たちの時代に至って、日本人の「学ぶ力」(それが「学力」ということの本義ですが)が劣化し続けているのは、「先駆的に知る力」を開発することの重要性を私たちが久しく閑却したからです。 

④今の子どもたちは「値札の貼られているものだけを注視し、値札が貼られていないものは無視する」ように教えられています。その上で、自分の手持ちの「貨幣」で買えるもっとも「値の高いもの」を探しだすように命じられている。幼児期からそのような「賢い買い物」のための訓練を施された子どもたちの中では、「先駆的に知る力」はおそらく萌芽状態のうちに摘まれてしまうでしょう。「値札がついていない ものは商品ではない」と教えられてきた子どもたちが「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」を発達させられるはずがない。 けれども、この力は資源の乏しい環境の中で(ということは、人類が経験してきた全歴史のほとんどにおいて)生き延びるために不可欠の能力だったのです。この能力を私たち列島住民もまた必須の資質とし て選択的に開発してきました。狭隘で資源に乏しいこの極束の島国が大国強国に伍して生き延びるためには「学ぶ」力を最大化する以外になかった。「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。
(出典:内田 樹 日本辺境論 新潮社 196~199頁 2009年)

(2)参考文の解説

参考文が言葉遣いや内容は若干難しいので、段落ごとに、どんなことが書かれているか、ザックリと解説していきましょう。

①第1段落

まず、学ぶ動機から。

何かを学ぶ前に、その全体像はわからない。内容も知らないのにそれでも何かを学ぼうとするのは、その学びが「死活的な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信する」。つまり、これを学ばないと、生き残れないということが直感的にわかる。学びは生き死にの問題だというのです。ずいぶん大げさな物言いですが。

映画や読書を例にとると、まず、私たちはレビューを読んだり、すでに映画を見た、本を読んだ友人知人に「どうだった?」と感想を聞いてみて、よい評価であったら、映画を見る、本を読む。こういう流れです。あらかじめ、価値を知ったうえで、実際に行動に移す。しかし、学びの場合は逆で、その意味や有用性(役にたつかどうかという価値)を知らないからこそ学ぶ。これを筆者は「順逆の狂った仕方で『学び』は構造化されています」と表現しています。

②第2段落

第1段落では、ものごとを実行するときの動機として、意味や有用性の観点から学びの特殊性を指摘したが、この段落では、報酬という観点から分析している。報酬はご褒美(ほうび)、筆者の言葉では「学ぶと得られるいいこと」になります。

国の教育行政官や教育論者は子どもたちにあらかじめ、学びの報酬を「学びに先立って一覧的に開示する」と「学びへのインセンティヴ(意欲)が高まる」と主張する。例を挙げると、次のような「学びの報酬の一覧表」です。

・学べば、いい大学に入って、いいところに就職できて、年収1千万円以上がもらえますよ。

・学べば、夢が実現しますよ。

・学べば、人生で成功しますよ。

・学べば、ノーベル賞をとれますよ。

などなど

 いわば、エサで子どもたちを釣ろうという作戦です。

 これに対して、筆者は「人間というのはそんな単純なものではありません。」と批判しています。「『学ぶ力』『学びを発動させる力』はそのような」数字や「外形的なベネフィット」=表面的なわかりやすい利益や世間の評価などに反応して子どもたちが学ぶわけではない。

 いいこと言っていますね。子どもをバカにすんな、というわけです。私の周囲のしっかりとした人は、「数値的・外形的なベネフィットに反応」して、経済学部や法学部を選択しましたが、私は文学部を選びました。その結果、長期的な人生設計を誤って、いまでも苦労しています。すいません。蛇足でした。

③第3段落

 ここは、第1段落で述べたことの繰り返し。確認になります。

 「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」というところが、この文章の核心部分で、筆者の一番イイタイコトになります。

 「報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらない」。つまり、学べば「これこれこういういいことがありますよ」と確信できなければ学ばないのは、「学ぶ力」が衰えていることの証拠だ。「『先駆的に知る力』を開発することの重要性を私たちが久しく閑却した」。つまり、「先駆的に知る力」すなわち「学ぶ力」を開発することが重要だということをすっかり忘れてしまったというわけです。

④第4段落

 今の子どもたちは、数字で計算できる価値に基づいて学ぶ意欲を調整している。そして、自分の現在の学力(この場合は偏差値)で入ることができる、最もネームバリューのある高校・大学に入るよう教師や親から命じられている。

 「値札がついていないものは商品ではない」と教えられてきた子どもたちが「今はその意味や有用性が表示されていないものの意味や有用性を先駆的に知る力」を発達させられるはずがない。

 数値的なものに換算できないものには価値がないと教えられてきた子どもたちが、そのものの意味や「役にたつかどうか」があらかじめ知らされていないものの価値を学ぶ前から知ることができる力を発達させることができるはずがない。

 しかし、食料などの必需品が乏しいなかで、こうした「あらかじめ知」る能力(学ぶ力)は人類が「生き延びるために不可欠の能力だった」。とりわけ(石油などの)資源に乏しく、国土の狭い島国日本で列強に負けずに生き残るためには「『学ぶ』力を最大化する以外になかった。「『学ぶ』力を失った日本人には未来がない(中略)現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています」。

 なんだか、第4段落で話が急に大げさになって、少し論理の飛躍があるようですが、こうした大風呂敷を広げるのはこの筆者の癖で、いわばご愛敬というところでしょう。

 問題にはありませんが、参考文を200字以内で要約してみましょう。

寺子屋

(3)要約

学力とは、生き延びる上で死活的な役割を果たすことがあるという意味や実用性を先駆的に確信することであるから、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子どもがいたら、その子の学力は衰微している。学力は資源の乏しい環境の中で生き延びるために不可欠の能力を開発することの重要性を閑却し、数値的・外形的な利益だけを重視するように命じられている中で、学力を摘まれてしまった日本人には未来がない。(196字)

(4)考え方

 筆者に賛成か反対か立場を明確にする。

 賛成の場合、現代の教育批判の流れになる。

 「学び」を単に有名大学進学や大企業や官僚になるための、医師や弁護士などの高給が保障される資格取得のための手段と考える。つまりあらかじめ計算できる報酬を得ることを目的として学ぶことへの懐疑や批判を書くこと。

 このような動機で学ぶのは、かつては当たり前とされた。

 しかし、いまやグローバリゼーションの進展など競争が激化し、変化が著しいなかで、医師や弁護士の資格をとっても、将来の安定した生活が保障されるとは限らない。

  新型コロナウイルス感染拡大で、医師や看護師など医療従事者は参考文の指摘するように、死活的な状況にあり、まさに「学び」は「生き延びる上で死活的な役割を果たす」ものとなっている。こうした時代状況から書き始めるのもいいだろう。

 結論は、「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」という筆者の主張を追認するだけでは物足りない。何か自分流のスパイスを加えて、味の変化をつけたほうがいいだろう。

 その際、自分が志望する大学・学部に引き付けて考えること。

 医歯薬看護系学部であれば、新型コロナウイルスの話題がドンピシャになる。その実態は完全に解明されているとは言い難く、まさに未知のウイルスであるからこそ、学ぶ価値がある。ということで、参考文の趣旨に合致する。

 経済・経営系学部であれば、やはり新型コロナウイルスのパンデミックを例に出して、経済の先が読めない状況について触れるとよいだろう。

 あるいは、このような学部学科に分ける発想そのものを壊していく、という発想もおもしろい。

 経済活動は、政府・企業・家計の3主体の間での閉じたものではなく、地球温暖化や未知のウイルスなど、自然という未知なるものが関与する。それゆえ、従来の経済学の見地だけでは予測のつかない事態にしばしば遭遇する。学びとは、狭い経済学のなかだけでなく、広く自然科学も対象に組み込んだ学際的、横断的なものとなる、と言うような趣旨で書くといいかもしれない。

(5)解答例

 有名大学進学や大企業への就職もしくは官僚になるための、医師や弁護士などの高給が保障される資格取得のための手段として学び考える。かつてはこれが当たり前とされた。それは198 0年代前半までの、日本経済がまだ光彩を放っていたころであり、学びは将来の安定した生活を保障するための方途とされた。学びの先にある数値的な報酬や世間的な評価はある程度、目に見えるものとして存在し、試験の偏差値や学校の評定は将来の成功を計るものさしとして機能していた。
 しかし、このような学びはしだいに力を失いつつある。それは、学びの本質が変わったからではなく、社会そのものが大きく変動したことが要因である。いまやグローバリゼーションが進展して競争が激化し、新型コロナウイルス感染が拡大して将来の見通しが立たなくなった。従来、計量可能とされたベネフィトが予測できない時代に入ったからである。リーマンショックを越える不況のただなかにあって、企業も個人も存亡の危機に立たされている。こうした困難な状況を生き残り、時代の先を読む「生き延びるために不可欠の能力」こそが筆者の主張する「先駆的に知る力」としての「学力」を置いてほかにない。
 経済活動は市場のなかだけの閉じたものではなく、地球温暖化や未知のウイルスなど自然という未知なるものが関与する。既存の学問領域からでは予測のつかない事態に遭遇するたびに、従来の分野ごとに閉じられた学びの構造が揺さぶられ、軋みが生じる。
 これからの時代に求められる「学び」とは、この綻びを修復することではない。大学にみられるような学部学科に細分化された組織を激しく揺すり亀裂を拡大させることからしか「学び」は生まれない。その裂け目から今まで見たこともない光景が現前に忽然とあらわれる。いまは予感の彼方に薄ぼんやりと霞んでいるものの規矩を先駆的につかみとる。これが、私の「学び」の目標である。(797字)

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