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「恥の文化と透明な存在」名古屋市立大学看護学部前期2016年

(1)問題


次の文章を読んで、後の問に答えなさい。

 

空しさの拡大

①  私は、一九九五年に刊行した『宗教クライシス』以来、現代日本人の空しさの核心は、自分がどこまでも交換可能であるという意識からくる、「かけがえのなさの喪失」だということを訴え続けてきた。『宗教クライシス』では、その前年に起きた「オウム真理教事件(注1)」を受け、一見豊かで何の不足もなく見える若者たちがあのような事件を引き起こしてしまう背景にあるのは、若者たちに広がる「空しさ」であり、そうした「かけがえのなさの喪失」は、若者だけに限らず日本社会全体に広がっており、右肩上がりの経済成長の(ア)利得によってその「空しさ」の構造は(イ)い隠されてきたが、いまや日本全体がそこに直面させられていると、問題を提起した。

②  それにもかかわらず、一九九五年の時点ではそういった指摘はまだまだ「現代若者論」として受け取られることが多かった。「こんなに豊かな社会なのに、いまの若者はどうしてあんなに元気がないんでしょうねぇ」「いまの若者にはどうしてこんなに夢がないのかねぇ」と、年長世代は若者を奇異の目で見ていたのだ。

③  しかし、それからの一〇年は、そうした「交換可能」の空しさ、かけがえのなさの喪失が若者だけに限らず、年長世代にも広がっていることが実感させられる時代だった。一生勤められると思っていた会社からある日突然リストラされる。「お前のような人間はいくらでもいるから、別にお前でなくてもいいのだ」と言われるのである。そしてそのときに私たちは、それまで会社にとっても仲間にとっても「かけがえのない存在」であると信じていた自分の存在が、どこまでも交換可能なひとつの部品でしかなかったという事実に直面するのである。

④  しかし、自分の個性を出してはいけない。自分の意見を強く主張するような奴は協調性がない奴だ、などと自分を「透明な存在」となるよう仕向けたのはこの会社社会なのではなかったか。私はその会社社会から受け入れられるために、自分を脱色し、脱臭し、透明化した末に、「透明な存在」なんて誰とでも交換可能だよ、と言って切られてしまうのだ。

⑤  受け入れられるために自らを殺し、空しくし、そしてその結果、受け入れられるはずの対象から切られてしまう。それは最大の(ウ)ひげきであろう。恋人から「こうすればあなたは私好みのあなたになれるのよ」と命じられ、必死にそれを身につけようとし、その要求に自分を同化し、「さあ100%あなた好みの私になりました」と言ったところ、「私の言いなりなんて、そんな個性のないあなたなんかつまらない」と振られてしまうようなものだ。

⑥  (1)問題は私たちが「透明な存在」になってしまっているところだ。もし私たちが自分を透明化させず人生に自分なりのこだわりがあったり、自分なりの色やにおいをもっている人間ならば、社会から少々受け入れられなくても、それでも生きていける。しかし周囲から受け入れられるはずの「透明な存在」がその透明さゆえに周囲から切られてしまうのでは、一〇年前に「若者の危機」全世代に拡大していく。世紀のかわり目であったこの一〇年とは、そうした「生きることの空しさ」が日本社会全体に深く認識された時代だったのである。

 

「恥の文化」の伝統

⑦(2)ならば、私たちはいまこそ「透明の存在」から抜け出さなければいけない。

⑧しかしそれはなかなか容易なことではない。というのは、その「透明化」を生み出すメカニズムは(エ)一朝一夕に形成されたものではなく、長く日本社会に(オ)君臨してきた「伝統」であったからである。

⑨  他者から(カ)きらわれないために自分を透明化する。それは「他者の目」を強く意識しながら生きるという日本人の自我の構造に根ざしている。その構造は六〇年前に書かれた日本人論の古典とも言うべき、ルース・ベネディクトの『菊と刀』(一九四八)でも既に指摘されている。

⑩ ベネディクトは欧米の人間から見るととても理解しがたい日本人の行動様式を説明するために、日本の文化を「恥の文化」の典型だとし、欧米などの「罪の文化」と対比させる。人の行為自体の絶対的な悪を認識する「罪」の文化に対して、それが共同体の中の他の成員から非難されることを「恥ずかしい」と感ずる、「他者の目」による「恥」の認識が優越しているのが「恥」の文化である。

⑪ もちろん「罪の文化」においても、場にふさわしい服装をしなかったりとか、人前で何かへまをやらかしたりすれば人々は恥の感情にさいなまれる。逆に「恥の文化_においても、殺人などの行為に関しては深い罪悪感を感じる。しかし、どちらが文化の基調になっているかを考えてみれば、日本文化は明らかに「恥の文化」であるとベネディクトは主張したのだ。

⑫「日本人の生活において恥が最高の地位を占めているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がすべてそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。みんなが同じ規則に従ってゲ一ムを行い、お互いに支持しあっているときには、日本人は快活にやすやすと行動することができる」(『菊と刀』)。

⑬一度も日本を訪れることなく、文献解読と在米の日系人へのインタビューによって第二次世界大戦中にこうした日本文化論・日本人論を生み出したベネディクトという文化人類学者の卓越した能力にはいまでも驚かされる。もちろん『菊と刀』の中には様々な誤りもあり、その後様々な批判を受けることになるが、しかしその大筋においては彼女の(キ)どうさつはたいへん(ク)するどいものだったと言わざるをえないだろう。

 

「世間」という「他者の目」

⑭ そして驚くべきは、この「人の目」を気にする「恥の文化」がこの日本社会ではそれ以後も長く続いてきたことだ。ベネディクトが『菊と刀』で描き出したもうひとつの点である「階層社会」としての日本社会像は、戦後になって(ケ)ほうかいし、「一億総中流」化する。しかし「人の目」のほうは、変化を(コ)げず生き残ってきたと言っていい。

⑮戦後社会においても日本の教育は子どもに「他者の目」を強く意識させるものであった。

⑯  例えば子どもが公園で遊んでいて何かいたずらをしてしまったようなときも、親は「そんなことをしてはダメでしょう!」と言うかわりに「そんなことをすると、あのおばちゃんに怒られますよ。ほら、○○ちゃんのことにらんでいるでしょう」などと、「他者の目」を引き合いに出して叱る。ベネディクトが言うように、「恥を感じるためには、実際にその場に他人がいあわせるか、あるいは少なくともいあわせると思い」込ませるような教育の方法が取られてきたのである。

⑰  あなたを常に見つめている「人の目」を自我の中に内面化すること。その「他者の目」の集合のイメ一ジが「世間」であり、「世間の目」を人格構造の中に深く埋め込むように教育が行われてきたのである。

(上田紀行 生きる意味 岩波新書二〇〇五年より一部改変)

(注1)オウム真理教事件 一九八〇年代末期からオウム真理教が起こした事件の総称のこと。首都圏の混乱を目的として、東京の地下鉄でサリンを散布した地下鉄サリン事件などがある

 

問1 太字部(ア)~(コ)の漢字は読み仮名に、ひらがなは漢字に直しなさい(送り仮名も含む)。

問2 ベネディクトは、「罪の文化」と「恥の文化」について対比して述べています。それらはどのような文化であるか、「罪の文化」は21宇以内で、「恥の文化」は20字以内で説明しなさい。

問3 太字部(1)」「問題は私たちが『透明な存在』になってしまっているところだ。」とありますが、これはどういう状態を意味しているのでしようか。「透明化」や「透明な存在」など「透明」という言葉を使わずに100字以内でしなさい。

問4 太字部(2)「ならば私たちはいまこそその「透明から抜け出さなければいけない。」と筆者は述ますが、あなた自身は「透明な存在」から抜け出すことに関してどのように考えますか。その理由を含め600字以内で具体的に論述しなさい。

(2)解答例

問1 

(ア)りとく (イ)おお (ウ)悲劇 (エ)いっちょういっせき (オ)くんりん

(カ)嫌われ (キ)洞察 (ク)鋭い(ケ)ほうかい (コ)と

問2

「罪の文化」

人の行為の善悪を絶対的に認識する欧米の文化(21字)

「恥の文化」

行為の善悪が他者の目に依存する日本の文化(20字)

他人の判断を基準に行動を定める日本の文化(20字)

問3

日本人は「他者の目」を強く意識しながら生きるという自我の構造に根ざしているので、会社社会から受け入れられるために他者から嫌われないように自分の個性を殺し、意見を抑えて会社社会の中で協調的に生きる状態。(100字)

問4 

 欧米が人間の行為に対して絶対的な基準がある「罪の文化」を形成する背景には、ユダヤ・キリスト教の歴史的な伝統がある。一神教の神は人間を含むこの世界をつくった創造神であり、時空を支配する存在である。こうした理由から、「十戒」に代表される神の命令は絶対的な規範となる。特にプロテスタントにこの傾向が強いが、祈りは人が神と一対一で向き合う行為であり、こうした祈りの場から信仰が生まれる。これは欧米の個人主義につながってゆく。「罪の文化」の絶対性の基盤には、このような宗教に裏付けられた揺るぎない個人主義がある。

 対して稲作を基調として形成された日本社会では、労働集約型の組織運営に基づく集団主義を特徴としている。加えて、日本人の協調性は「和を以て貴しと為し」とする十七条の憲法に知られているところの儒教道徳が影響している。倫理の基準が「他者の目」にあるのは、このような社会構成と思想的な背景に由来するものである。「透明な存在」から抜け出す際の条件として欧米流の個人主義が育つことが前提となる。八百万の神を信仰する多神教の日本では、神は人間に近い存在であり、神も誤りを犯し、死ぬ存在である。従って、神の命令は絶対的な規範とはなり得ない。このように儒教や神道に基づく宗教的な背景が日本人の行動意識を基礎付けて、欧米とは全く異なる以上、筆者の主張は困難であると考える。

(586字)

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