【接続詞について考える】学校の教師は何もわかっちゃいない
このブログは大学入試小論文の基礎から発展まで、受験生に書き方を伝えるために書いている。
ブログの目的はもうひとつある。
今回はその話について書く。
長い間、文章を書いてきてわかったことがある。
表現者として文章を書いていると、自分が習った学校の教師の言うことが当てにならないことに気づいた。
国語の教師のなかには、若いころは文学青年や文学少女として小説家を夢見た人もいるだろう。
しかし、文章を書いた経験があるが、現役でいまも文章を書くことで対価を得ている者は多くない。
学校の先生は教育者であっても表現者ではない。現役で創作活動をしている人はまれである。
教師の仕事は膨大で、大半が創作的な文章とは無関係な書類の作成や会議、生徒指導に追われ、クリエイターとして、孤独に文章と向き合う時間がとれない。
だから、一方的に学校の教師を責めることはできないのは承知している。
それでも、こと小論文の指導、ということに限って言えば、国語教師の言うことはおかしなことばかりだ。
たとえば、「小論文では接続詞を使いましょう」という指導がある。
小学校の授業の作文で、接続詞の使い方を習った。課題の文章を書いて、接続詞の使い方を直されたり、接続詞を赤で入れられたりしたことがある。
小学校や中学校などの義務教育で「作文は接続詞を使いましょう」と言うのはいい。
たくさん使わせることで、接続詞の用い方を覚え、慣れてもらうという教育的配慮から、このような指導が為されているのだろう。
しかし、高校や塾・予備校でも小論文担当の教師が添削で接続詞を入れてくるケースがある。
こういう教師に異議を唱えたい。
たとえば、「そして」という接続詞がある。
これは、文法では並列(並べる)や添加(付け加える)の機能を持たせるときに用いる。
ところが、学校の教師の言われるまま、この「そして」などの接続詞を使うと、どうなるか。
手前味噌になるが、以下に掲載したのは私が書いた入試問題の小論文解答例(例文①)になる。
これに、接続詞などのつなぎ言葉を加えた文章(例文②)を並べてみる。
【例文①】
大手広告会社、電通の女性社員が長時間労働などを苦に自殺した事件の衝撃は記憶に新しい。その後も回転寿司チェーン店長が働き詰めの結果、心臓性突然死を迎えた事件など、過労死・過労自殺は数限りない。休みなく働き続けた結果がこのような悲惨な事件となって現われる。一番起きてはいけないバットエンドの事例以外にも、もし余暇がなく働き続けるとどうなるかを以下で考えてみたい。
仕事中にミスが多くなる。働き手が主に男性である場合、家事や介護・育児における女性の負担が増大する。共稼ぎや女性のひとり親の場合もそれ以上に、女性の負担が増大する。家庭の夫婦や親子の関係が悪化する。地域活動ができなくなる。思いつくまま例を挙げたが、生産性の低下、家族の崩壊、地域の連帯の喪失や劣化という言葉でまとめることができる。こうした状態を続けていては、仕事も生活も両方駄目になる。(以下省略)
【例文②】
大手広告会社、電通の女性社員が長時間労働などを苦に自殺した事件の衝撃は記憶に新しい。その後も回転寿司チェーン店長が働き詰めの結果、心臓性突然死を迎えた事件など、過労死・過労自殺は数限りない。休みなく働き続けた結果がこのような悲惨な事件となって現われる。一番起きてはいけないバットエンドの事例以外にも、もし余暇がなく働き続けるとどうなるかを以下で考えてみたい。
仕事中にミスが多くなる。そして働き手が主に男性である場合、家事や介護・育児における女性の負担が増大する。また共稼ぎや女性のひとり親の場合もそれ以上に、女性の負担が増大する。さらに家庭の夫婦や親子の関係が悪化する。ついには地域活動ができなくなる。思いつくまま例を挙げたが、生産性の低下、家族の崩壊、地域の連帯の喪失や劣化という言葉でまとめることができる。こうした状態を続けていては、仕事も生活も両方駄目になる。(以下省略)
【例文②】で用いた接続詞などのつなぎ言葉は太字で示した。
2つの文章を比べてみて、どうだろう。
【例文①】は、もし余暇がなく働き続けるとどうなるか、という具体例をいくつか、思いつくまま並べてみた。接続詞を使わないことで、テンポよく、読者は例示した光景を次々と思い浮かべることができる。
ところが、【例文②】では、接続詞で寸断されて、文章のリズムが悪く、もたもたした印象を受ける。
私がもし大学入試の合否を決める担当者であったら、断然【例文①】を選ぶ。
(接続詞の有無のような、わずかな差異だけで合否が決まることは、実際にはないと思うが)
それなのに、(小中)学校の教師が添削する際に、なぜ、【例文①】の文章に赤を入れて【例文②】のように直させるかというと、最初に書いたように接続詞の使用法を覚えさせるという教育的配慮と、初心者の読者に文意をわかりやすく伝えるための効果をもたせるという2つの理由があるからだ。
逆接の接続詞「しかし」がまさにそれで、文章の流れをひっくり返す効果があるのだから、いきなり返されると初心者の読者は驚いて混乱する。
いわば、いきなり殴られるようなもの。
だから、「今から殴りますよ」と言ってから、殴る。
そんな「殴る」予告のようなものが、接続詞「しかし」の本来の意義になる。
ちなみに、いま、私が書いているこの文章でも、接続詞が多く使われている。
これは後者の意図に従ってのものだ。
だが、大学入試で受験生が書いた小論文の読者の大学教員はプロの表現者である。
あえて、わざわざ接続詞を使わなくても、文脈で文意を読み取ることができる。
むしろ、接続詞を使うことで、語調がそがれてしまう逆効果をもたらす弊害がある。
「そして」という接続詞にしても、語調や流れで、いったん文章を緩めて次につなげる効果がある。
「そして」はそんなときに使う。
なんでも、かんでも添加するときには「そして」だと、なんだか小学生の書いた作文になってしまう。
そこのところがわからないで、ダメな添削者は、接続詞をやたら入れてくる。
これは自分が小学校や中学校で習ったことが頭に染みついているから、その癖が抜けずに、高校や塾・予備校で同じ指導をしてしまう。
表現者のはしくれである私から見れば笑止千万。
私の文章の流儀。
プロに読ませる小論文では、接続詞はなるべく使わない。
ていうことで、これからも学校の国語教師にどんどん喧嘩を売っていきます。
もし、いまこの文章を読まれている方で、学校や塾・予備校の小論文教師がおられるなら、反論をコメント欄に書いてください。
いつでも受けて立ちます。
受験生へ。
小論文の勉強はダメな教師の言うことを聞くより、いい文章をたくさん読みましょう。
岡本太郎の「あやとり論」は秀逸です。
やはり接続詞の使用は最小限に抑えています。
ぜひ読んでみてください。