その瞬間、彼女の姿が異様なくらい儚く映った――「天使は奇跡を希う」048
港では、横一列につながれた小型ボートが波に合わせて揺れている。
ボート同士がぶつからないよう挟まれた発泡スチロールの浮がそのたびに擦れ、きゅきゅ、きゅきゅ、と鳴った。
「海鳥みたいに聞こえるね」
隣で星月さんがつぶやく。夜の海を背景に、ほんのり青白く浮かんだ丸い頰。
自転車を押しながら、彼女と二人きりで夜道を歩いている。
この時間がずっと続けばいいのに。本気でそう思った。
どうしてだろう。
そのときぼくはふと、成美と過ごしていた夕方の気分を思い出してしまう。
神社に向かっているときから新刊のことばかりが頭にあって、並んで石段を上っているときも、話してるときも、早く終わらないかなとずっと考えていた。
――ぜんぜん違う。
成美といるときは、一度も今みたいな気持ちになったことがない。
「新海くん」
「……なに?」
「新聞、面白い感じになったね」
「そうか?」
「うん」
こんなどうでもいい会話が、たまらなく楽しい。
「ミッション、いろいろやったね」
「ああ」
「まず、しまなみ海道をサイクリングしたね」
「すげかったな」
「神様いそう」
「いそうだった」
「ナルちゃんと越智くんも一緒に、市民の森に行った」
「蓮がグロいって言ってたな」
「パンの袋が風で飛んで」
「そのあとガストで駄弁(だべ)って」
「タオル工場を見に行った」
「あのとき、なんで泣きそうになってたんだ?」
「たぶん誰かがユーカの噂をしてたんだよ」
「なんでそれで泣くんだよ」
「平成ではそうなんだよ」
「意味わかんねえ」
笑いあう。
向かいから、軽自動車のヘッドライトが近づいてきた。
「新海くん、車」
ぼくのシャツをつかんで、内側に引いてくる。
「大丈夫だって」
車がホワイトノイズのような音とともに近づき――通り過ぎていく。
星月さんがゆっくりと手を離す。ぼくはひそかにどきどきしていた。
「……ミッションやってるときね、よく変な感じになるの」
「変な感じ?」
「前にも同(おんな)じことあった気がするなあって」
「既視感(デジャブ)?」
「うん。……新海くんは、そんな感じにならない?」
ぼくに振り向き、窺うように首を傾げてくる。その仕草に心がちょっと弾みつつ、
「……べつに」
「なるよ」
「なんねーよ」
わきに銀座商店街の入口が見えた。
ぽっかり白いアーケード通りは、こちら側が終点なこともあり本格的なシャッター街だ。真夜中の今は不安にさせる空虚さが漂っていて、ぼくはそこに入らず、奥の大通りを目指した。
あと少しで、駅に着いてしまう。
「そっか」
星月さんがなにげないふうにつぶやく。
そして、花がしおれるような自然さでうつむく。華奢なうなじに骨が薄く浮かぶ。
なんだろう――
その瞬間、彼女の姿が異様なくらい儚く映った。
消えてしまうんじゃ、という印象がよぎって、彼女がいずれいなくなる事実が初めてリアルに迫ってきた。
そう。彼女は、天使。
ミッションが成功すれば、天国に帰ってしまう――
ついさっきまで満ちていた幸福感が消し飛び、体中が焦りで蝕まれる。
「………ミッションさ」
話しかけると、彼女が見てくる。ぼくは逃げるように目を逸らす。
「どうしても成功させなきゃいけないのかな」
自分の硬い声が夜気を滑る。
「天国、絶対に帰んなきゃいけないのか? そういう決まりとか、あるのか?」
このとき、ぼくは自分の気持ちをはっきりと自覚した。
眠りについたような大通りに、橙色の街灯が寂しくともっている。
隣から、何も聞こえてこない。
間に耐えきれず振り向くと───
星月さんは、微笑んでいた。
これまで見たことのない、なんとも言えないかなしいまなざしをして。
「うん」
はっきりと、言う。
「このミッションは絶対に成功させなきゃいけないの」
強い意志のこもった鋭さに、ぼくの心が小さく裂ける。
それは切り傷みたいに、長い時間チクチクと疼くだろう。
なぜなら、とても単純で。
ぼくは星月さんのことが、好きだからだ。
七月隆文・著/前康輔・写真