コーヒーの香りが満ちている――「天使は奇跡を希う」008
「そうだ、コーヒー」
成美がすっと席を立ち、奥の収納に向かう。
シューズボックスの一つを開けると、中には電気ケトルと紙コップと、インスタントコーヒーとティーバッグ各種。先輩が残した数少ないガラクタ以外の遺産。
「良史(よしふみ)、なに飲む?」
「あ……じゃあ、コーヒー」
成美が準備を始める。
もちろん先生にみつかったら怒られる。
成美は委員長みたいな雰囲気で中身も実際そうだから、規則とかにはうるさいんだけど、食べることに関してだけは例外項目で、そうとう自分に甘くなる。
ペットボトルの水を電気ケトルに注ぐ姿を見つつ、ぼくはふと、成美がぼくの変な空気を察して逃げたんじゃないかと思った。そんな気がする。
自己嫌悪に陥る。
「はい」
「サンキュ」
渡された白い紙コップのコーヒーをひと口。
禁止されているのを隠して部室でこっそり飲むインスタントコーヒーは、本来の何倍も美味しいと思う。
成美が隣に座ってひと口すすり、ちょっと幸せそうな微笑みを浮かべた。
なんの匂いもしなかった部室に、成美の淹れたコーヒーの香りが満ちている。
結局、何も決まらないまま今日はお開きになった。
成美と二人で駐輪場に向かう途中、グラウンドで活動する野球部の姿が見えた。
うちの高校の野球部は甲子園常連の強豪で、その練習は端から見ていてもすさまじい。
ノックを受ける体の捌きとか、ファーストに投げるボールの速さとか、プロなんじゃないかと思ってしまう。ぼくが見てきた野球部とはレベルが違いすぎた。
そして、たった今ファーストにボールを投げたのが、健吾だった。
一年生にして強豪校のレギュラーであり、目鼻立ちのきりっとしたイケメンに成長した。
グラウンドの外れで、女子たちが固まって練習を見守っている。マネージャーではなく、部員の彼女やファンだ。全国レベルになると本当にこういう光景があるのだと、入学したばかりの頃は驚いたものだった。
その女子たちの多くが、健吾に熱心なまなざしを向けている。
坊主頭でもイケメンかつ、とっつきやすい人柄のあいつはすごくモテる。
告られてもなぜか全部断ってるみたいだけど。
「やってるな」
「うん」
ぼくたちはぼんやり眺めながらつぶやく。
そのとき健吾がこっちに気づいて「おう」というふうに手を振ってきた。
速攻で監督にみつかって怒られた。
あいつは、ああいう良くも悪くも目立ってしまうところがある。
七月隆文・著/前康輔・写真