ただいま――「天使は奇跡を希う」010
今治から広島の尾道までをつなぐ瀬戸内海の縦断ルートを「しまなみ海道」と名づけ、観光地としてプッシュしている。
大橋(ブリッジ)に自転車で走れる道があり、瀬戸内海の景色を楽しみつつ渡れるのがウリ。実際、海外からも自転車愛好家(サイクリスト)が訪れるようになっているらしいけど――観光地の常というか、地元の人はあまり行ってないようだ。
通りを進むと、大きな金色のプロペラが見えてくる。
公会堂の前に置かれた巨大なオブジェで、船のスクリューらしい。今治は造船が盛んで、全国シェアナンバー1なのだと成美が誇らしげに言っていた。
そこを右、左と曲がると、住宅街に。
昭和そのままみたいなこぢんまりとした景色を自転車で行くとほどなくして――古い民宿っぽい黒塗りの木造二階建が見えてくる。
ここが、父方の祖母の家。
ぼくがいま住んでいる場所だ。
自転車を駐(と)め、年月で曇ったガラスをはめた木戸をガタガタ開けると、古い家の匂いが迎える。
セメントで固めた土間から上がって、狭い廊下を進むと、奥の部屋でおばあちゃんが再放送の刑事ドラマを観ていた。こちらに振り向き、
「おかえり」
低くてやわらかでちょっとしわがれた声で言う。
垂れ目の柔和な顔。こめかみのあたりに大きなほくろがぽつんとある。
「ただいま」
ぼくは成美にもらった紙袋を見せ、
「村上さんにパンもらった」
「あら。何かお礼しないとねぇ」
「うん」
自分のパンをひとつ取って紙袋を座卓に置き、ぼくは二階へ上がる。
ぼくがここに来た最初の日以降、おばあちゃんはあのことについて何もふれてこない。
家族に対する不信感をぶつけたぼくを、穏やかに、おばあちゃんらしい古い言い方でなだめたくらいだ。それがありがたかった。
ぼくが再び今治にやってきたこと、おばあちゃんの家に住むようになったことには、理由がある。
その理由である事件については、思い出したくない。
七月隆文・著/前康輔・写真
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