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さわっても、いい?――「天使は奇跡を希う」006

 緊張がほどけ、事実がはっきりしたあとぼくの中に湧いてきたのは、目の前の不思議に対する素朴な好奇心だった。

「その羽……近くで見てもいいか?」

「どうぞ?」

 あっさり言って、背中を向けてきた。

「…………」

 白い白い、鳥類の羽。

 いろんなところで描かれてきた天使の羽そのもの。でも、こんなに大きな翼を持った鳥なんていないから、よくよくみつめると奇妙な感覚になる。

 それが人の背中から伸びている。制服とのつなぎ目はさらに不思議なことになっていて、布という物体をすり抜けているようにしか見えなかった。

「……さわってみて、いい?」

 星月さんは困ったふうにちょっと肩を傾げたあと、

「いいよ」

「ありがと……」

 ぼくは少しばかりどきどきしながら手を伸ばし、彼女の羽に………ふれた。

 鳩の羽に一度だけ触ったことがある。

 折れてしまいそうな華奢な骨と、薄いタンパク質(ケラチン)を束ねた鋭利で機能的な羽毛の感触。

 それとはぜんぜん違う。

 そんな生物学的に研ぎ澄まされた質感じゃなく、あっと驚くくらい現実離れしたもの。たとえるなら「触れる空気」といったふうな、透明な手触りだった。

 ぼくも星月さんも無言で、部室は静まりかえっている。

 隣の漫研は、まさかベニヤの壁一枚隔てた向こうでこんなファンタジーなことが行われているなんて思わないだろう。

「あのね、新海くんにお願いがあるの」

 ふいに星月さんが言う。

 ぼくが羽から手を離すと、彼女がゆっくり振り返ってきた。

 思いつめたまなざし。

「……なに?」

 ぼくが聞き返したとき、後ろからかすかな靴音。

 振り向くと、戸の磨りガラスに人影が映っている。――と思うまもなく、がらりと開いた。

 成美だった。


七月隆文・著/前康輔・写真

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