私の絵画鑑賞法, 法人コンサルタントの神田房枝さんは「絵画を見ながら知覚力、思考力、コミニケーション力を向上させる方法」をその著書で主張
神田房枝さんは「データ予測、意思決定、創造的思考、あらゆる知的生産の土台となるのは知覚力である」と述べ、絵画というフレームに囲まれた小宇宙で知覚力をトレーニングをすること薦めてています。知覚とは思考以前の力で目の前の情報を受け入れ、独自の解釈を加えるプロセスであるとしています。そして、ノーベル賞受賞者の9割はアート愛好者であるとも言っています。また、神田さんはピーター ドラッカーが室町水墨画の愛好者であるとも述べてしています。
神田さんの主張することと、私の絵画鑑賞修行と関連する部分がありそうです。
私の絵画鑑賞修行の歴史を書いてみます
①30才、初めての海外旅行での美術館巡りで感じたこと
名も知らなかったルネサンス期の画家の絵を数多く見ているうちに強く印象に残る画家を何人か発見。今まで知らなかったカルロ クリヴェッリという画家をなぜ気に入ったのかと自問してみた。他の画家とは明らかに違う独自の世界を形成していることに気が付きました。
また、巨匠と呼ばれている画家の絵は説明を見なくても一目でわかるようにもなった.破戒僧画家フィリッポ リッピは女性美の追求に全力を注入していると感じ、その優美さに惹かれました。
その作家独自の内面世界が絵画上に表現されているから感動を受けるだと考えるようになったのです。
ベレンソン著の「北イタリアのルネサンス画家」をローマの書店で買ってきて、帰国後、じっくりと見ました。二流、三流の画家の多数の絵の中に、アンドレア マンテーニャの絵が現れると、一目でその非凡さが感じ取れたのです。3000mクラスの山々の中から突然、エベレストが出現したような衝撃を受けたのです。巨匠の作品のすばらしさを知るには同時代の群小画家の作品群の中においてこそ知ることができると私は思ったのです。巨匠の絵画 は他の画家がまねをできない独自の世界を築いているから感動をもたらすのであるといえます。
②レオナルドダヴィンチのモナリザは名画中の名画と呼ばれているわけは?
イタリアのレナートカステラ―ニ監督の「レオナルドダヴィンチの生涯」という映画の中で最も印象に残っている場面はラファエロが師匠のペルジーノと共にレオナルドを訪問した場面です。
かなり長い時間、旧友同士である二人は昔話をしています。若いラファエロははその間、モナリザの前に立ち尽くし、見つめています。感動の涙を流しながら見つめているのです。
モナリザはレオナルドダヴィンチの自画像であるともいわれています。レオナルドの内面、精神世界を描いた絵であるという意味です。
深い深い海の底のようなレオナルドの精神世界を見つめてラファエロは感動したのであると思います。
モナリザについての余談
1974年4月にモナリザが日本で展示されたことがあります。私も見に行きました。鑑賞でもなく、見たとも言えずモナリザの前を3秒間くらい立ち止まって通り過ぎただけでした。係員に急かされ、後ろか押されてです。皆さんすべて係員の指示に従って行列を作り、おとなしく通り過ぎて行きました。
私も仕方がないと思って怒りませんでした。しかし、今、思い返すと少々腹が立ちます。入館料をもっと高くして、入場者数を制限して、鑑賞できるようにすべきであったと思っているわけです。
同じ年の8月にはルーブル美術館で時間制限なく鑑賞することができました。今はガラスケースの中に収めてあるようですが、この時はガラスケースの中に納まっていませんでした。
③私所有の山楽銘襖絵4面について。再度の考察
室町水墨画を愛好ししたピータードラッカーは次のように述べています。
「日本の山水画家は、人は自然の中で生き、自然は人ぬきでは完全でないとしている」「日本の山水画は観る者を招き入れる。むしろ入ることを望んでいる。そこには常に観る者の場所が用意されている」
私も所有の山水画を毎日、無数ともいえる回数を見ながら、ドラッカー氏の言う通りだと思っています。
私のの山水画には次のような場所に観る者の場所が用意されています。
「湖岸の別荘」「湖に乗り出した船の中」「対岸に渡る橋の上」「渡った後のあずまや」
湖岸の別荘の大岩の裏側の山道にも招きいれられるように感じています。
さらにドラッカーは「正気を取り戻し、世界への視野を正すために私は日本がを見る」とも述べています。
私もまた、ドラッカーのような高い見地からではないのですが、見るたびに雑念が払いのけてもらえるように感じています。
70歳代後半になってから、昔の嫌なことを思い出したり。将来の健康上の不安に駆られたりすることが多くなりました。そんな時、山水画の世界に入ると雑念が払いのけられ、ポジティブな気分になれるのです。