絶望。そして初投稿。
「愛国心を育てるために、日本の歴史教育に力を入れよう」
ここでポイントとなるのは「日本の歴史を教えさえすれば、生徒は自然的に国を愛する」ということが前提されている点である。
私は通信制高校に通う高校生だが、いくら日本の歴史を学べども、愛国心なるものは私の精神には醸成されない。むしろ学べば学ぶほどに、呆れ返って笑えてくるか、情けなくって涙が出るかのどちらかだ。
その理由としては、日本の歴史は「個人の自由」や「人間の可能性」を追究し実現するという、崇高な理念の下に人々が戦ってきたことの歴史ではなく、、、
むしろ「今」という時間や「ここ」という場所、あるいは「まわりの人」などの、世界から受動的にもたらされた「出会い」にただ漠然と感謝しようと、人々が馴れ合いを繰り返してきたことの歴史であるからだ。
では、一体どんな歴史的事柄からそれが指摘出来るのかということは今後少しずつ記述していくとして、まずは先に指摘した日本人の「底無し沼のような受動性」が現在も根強く残っていることに言及する。
私はよくネットの検索ワードに「○○ あきらめた」と入力して検索するのだが、それによって出てくる記事には「私は○○をあきらめない」「○○を諦めようと思ったけど、やはり諦めない」というふうに、必ず「あきらめ」を否定する記事が出現する。
ひどい場合には「一度はあきらめた。けど、もうあきらめないということを再び決意した」という、論理的に破綻したゾンビ的理念が目に飛び込んでくることさえある。
たしかに安西先生は「あきらめたらそこで試合終了だよ」と説いた。しかしその前提条件にあるのは、バスケットの試合は時間によって自然に終わりが訪れる、という前提である。
つまり、人生におけるほとんどの事柄や物事においては、自分でそれをあきらめるという決断をしなければ、次の事柄に接することはできないのだ。
だが、日本人はあきらめない。しかし、それにしてもなぜ?日本人はこんなにもあきらめないのか?
それはこの記事の冒頭で触れたように、ある事柄(日本の歴史)とある事柄(生徒)を関係させてさえしまえば、後は時間が全ての物事を成功(愛国心の醸成)へと導いてくれるはずだという、時間に対する依存的な思考様式のあらわれと、人は自分以外の存在を否定してはならないという「隷属意識」のあらわれである。
実は、私は日本国および日本人を知るにしたがって、いつしかある一つの決意が固まった。つまりそれは、もう私はそれらの存在に期待も信頼も抱かないという決意だ。
そして私は、日本を「あきらめる」ことの決意を今ここに宣言し、同時に、私は個人として独立的に生きることを未来と契約する。
さらにはそれに伴い、今後は「他者」として日本国および日本人を徹底的に分析することを誓う。以上。
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