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大人

※この作品は、フィクションです。※

今日は支店長から転勤を告げられる日だ。
午前中に支店長が本部へ出向き、来年度の人事異動を告げられる。そして、本部から戻った支店長によって、私たち社員へ伝えられる。まだ内々の状態なので、この時点では内部の人間にしか知らされず、取引先に明かしてもよいのはもう少し先になる。とはいえ、私たち社員にとっては多くの人間の様々な思惑が絡み合う複雑な日だ。

私は毎年、この日が苦手だ。
発表は、異動がある人だけが一人ずつ順番に呼び出され告げられるシステムである。この時点では異動があるかないかわからないので、結果的に、全員がオフィスに待機していなければならない。

強く異動を希望している人。
できればそろそろ変わりたい人。
どっちでもいい人。
できれば異動したくない人。
絶対動きたくない人。
同じプロジェクトの人が抜けるくらいなら自分が抜けたい人。
自分の直属の人だけはいなくならないで欲しい人。

本当に様々な思いが渦巻く中、座っていなければならない。

黙ってじっとしている人。
口数が多くなる人。
普段通りに見える人。
黙々と仕事をしている人。
無駄に歩き回る人。

それぞれがどんな思いでいるのか、他人の私にはわかるはずがないと思いながらも、どうしても、想像してしまう。そして、その思いに対して私の言動が負の方向での何らかの影響を与えたくないので、どうしていいかわからなくなってしまう。まるで、どこに地雷があるかわからないフィールドに待機させられていて、踏んだら死ぬと決まっているわけではないし、周りの人も結果を責めたりはしないとわかっているけれど、でも万が一踏んでしまってよくないことが起きたらいやだから、そこから一歩も動けなくなるような、そんな気持ちになるのだ。


私自身、いずれは異動をしたい。でも、異動したら、新しい仕事や新しい人間関係をゼロから頑張らなければならないという怖さと面倒くささもある。では、なぜ異動したいのか考えると、ずっとこのままの状態なのが何だか不安だからだ。このままずっと同じような毎日が続いて、周りはどんどん変わっていくのに、自分はずっと変わらないという状況が、ただただ漠然と不安なのだ。
この店で何か成し遂げたいことがある、ということであればよいかもしれない。でも、特にそれもない。
要するに、仕事もプライベートも含めて、職場以外の居場所がないけれど、ずっとこの職場に根を張るのだという覚悟もない、ここがとっても嫌なわけではないけれど、どこかに行ったところで今より何か良くなる確証もない、だからどうしようもない、ということなのだ。そうやって突き詰めていくと、結局、人生そのものについて消極的な気持ちになってくるので、あまり考えたところで仕方がないような気にもなってくる。
そんなわけで、私自身は、非常に中途半端な、自分なりにはたくさんいろいろ考えた上で、「なるようになるしかないのかもな」というような感じでいるのである。

周りからは、私はどう見られているのだろう。「今日、呼ばれるといいね。」と言う感じで、異動をしたがっている人という位置づけで話しかけられることもある。逆もあるし、どちらでもないこともある。でも、先述したように、私自身が私自身の意志を固めかねているので、どう位置づけられたところで、何とも言えない気持ちにしかならない。かといって、「どうなってもわが社の意志に従いますから~。」という立場を強くとるのも、従順な社畜感があってイタい気もする。それに、強く異動を希望している人の心を煽る感じになるんじゃないかとも思う。

そんなわけで、私自身もどうしていいいかわからないし、浮足立って盛り上がっている周りの人を見るのも嫌だし、とにかく結構苦手な時間を過ごさなくてはならない。
私自身の置かれた状況から考えても、異動があるだろうという確信はなく、かといって、異動がないだろうという確信もなく、ただただこの日、この時間をどう過ごしていいかわからない。そんな気持ちで座っていた。近くに座っている同僚が強く異動を希望をしている人なので、余計刺激したくない。どういう順番で呼ばれるか、何人の人が呼ばれるか、誰が呼ばれるか、どんな情報も今の私には必要ない。そんな気持ちで、無駄に真剣に仕事に集中しようとしていた私のところへ、副支店長がやってきて、名前を呼んだ。名前を呼ばれたということは、着いていかなければならない。この人は今、強く異動を希望している人たちの席の間を通り抜けて、自分の意志すら曖昧な私の所へやって来た。何とも言えない気持ちで立ち上がる。その人たちの顔を見ることができない。でも、周りの人たちの視線が集まっているのを感じる。副支店長のあとをついていく私は、嬉しそうに見えるだろうか。残念そうに見えるだろうか。けだるそうに見えるかもしれない。どう見えていたとしても、何かしらの立場の誰かを不快にさせるような気がして、何も考えたくない。私を見ないで欲しい。


別室に通されると、支店長が待っていた。支店長から、異動先の店舗を告げられる。隣には神妙な顔をした副支店長もいて、この店のトップ2とこんな風に同時に対峙することって、意外とあんまりなかったな、なんてことを頭の片隅で思った。新しい店舗は、かなり業務内容は変わりそうだが、へき地とかではないし、急いで転居する必要もなさそうで、安心している自分自身にちょっと驚く。支店長が私が居なくなることを残念がる言葉を述べている。どこまで本心なんだろう。まぁ今いる人がどんなに無能で、新しくくる人がどんなに優秀でも、人が入れ替わるという時点で、新たに仕事を教えるという手間が増えるから、残念は残念だろうな。希望をしていないのに異動になったという点でも本当に支店長自身も驚いて、戸惑っているという言葉も足される。まぁ、何にしても、信じたいけれど、どこまで本心なのか、また信じてその言葉を受け取ったところで何か、目の前の現実が変わるのか、いや、そもそも目の前の現実を変えたいのか、また私の中がぐちゃぐちゃになる。
今後やらなければいけない手続きについて簡単な説明がある。でも、頭がぐるぐるしているので、支店長の言葉が通り過ぎていくような感覚。どうせプリントにすべて明記されているだろうから、あとで読めばわかるだろう。
気づいたら話が終わる。部屋を出る時に、まだあまり口外しないように。と念を押される。そうは言っても例年広まっているけどな、という気持ちと、そういうものなのか、という気持ちが同時に沸き上がり、どの程度その指示を守るべきなんだろうと思う。ずっと頭の中がぐるぐるしている。
副支店長に連れられて、みんなのいるオフィスに向かう。歩きながら、副支店長が本当に残念だという言葉をくれる。その言葉のあとにつけ足された言葉が「雑談相手がいなくなる」という内容だったので、支店長の言葉と違って、今度は素直に受け取ることができた。軽いけど、本心だろうと、すんなり心になじんだ感覚がした。
オフィスが近づいてくるけれど、どんな顔をして戻ればいいんだろう。ほとぼりが冷めるまでこのまま別の場所に行こうか。でも、ほとぼりが冷めるまでっていつ?すぐに戻らなければ、何かあったのではないかと、余計大事になるよね。それに、副支店長と一緒に戻っているから、ここで離脱するのも不自然だ。
顔を見れないけれど、副支店長も、また次の人を呼ばなければいけないから、きっと、気を引き締め直しているんだろうな。そういえば、私より前に誰か呼ばれていたんだろうか?もしかして私が最後だったら、異動を告げる会の終了を告げなければならない。それはそれで、希望しているのに呼ばれていない人がいる限り、嫌な瞬間だよな。

そんなことをぐるぐる考えているうちに、オフィスに到着してしまう。副支店長のあとに続いてオフィスに足を踏み入れる。たくさんの人が私の方を見ている。話しかけたそうな、好奇心のにじむ顔で、私の様子を伺っている。こんな居心地の悪さは初めてかもしれない。見慣れたオフィスなのに、すごく違和感がある。誰が一番先に私に話しかけてくるだろうか。話しかけられて根掘り葉掘り聞かれるのもいやだけど、話しかけられないなら話しかけられないで、よほど私が話しかけづらい態度を取ってしまっていたのかと不安になるような気がする。頭はずっとぐるぐるしているけれど、身体は自然と自分の席に向かっていた。なんかとても変な感覚。自席に戻る通り道に、ペアで仕事をしている上司の席があり、目が合う。
「どこになりましたか?」
そうだ、このタイミングで別室に呼び出された時点で、私は4月からはここにはいないことは確定しているんだ。当たり前のことを改めて思う。支店長から口止めされたことを思い出したので一瞬考えたけれど、この人なら、関係性的にも人柄的にも話して良い気がする。いや、むしろ、隠す方が不自然だろう。私は、新しい配属先を告げる。そして、言葉を交わす。業務的なことから、労いの言葉まで、短い時間だったように感じるけど、ポンポンと言葉が出てきて、いつも通り会話ができている。ずっと変な感覚な割に、意外と普通に喋れているなと頭の片隅で思う。

話が終わり席に戻ると、何人かが駆け寄って、どこになったか尋ねられる。頭の片隅で「この人が真っ先に聞きに来るんだ。」とか「強く異動を希望している人も近くにいるよなあ。その人たちに私の振る舞いはどう映るんだろう?」とか「口外するなという念押しはどの程度守るべきなんだ?」とか、そんな考えが、ただでさえぐるぐるしている私の頭の中に一気に沸き上がる。咄嗟に「言っちゃだめって言われたんで、、、。」という感じで一度その場を流してみたりした。ちょっと変な感じになった気がして、ちょっと後悔した。自分の希望がまだかなっていない人の前で異動先の話をすることが不快に思わせるんじゃないかと思ったけれど、言わない方が逆に思わせぶりに煽ってるような感じになってしまったんじゃないか。しかし、一度自分で流しておいて、再び自分から切り出すことはできない。どうしよう。またぐるぐるしているところに、さらに別の人がやってきた。どこになったか聞かれるものの、さっき流した手前、この人には喋るみたいなのは変だから、もう一度、流すしかない。でも、今回の人は、それでも食い下がってきた。「そんなん誰も守ってないよ。守らなくていいんだよ。そういうもんなんだから。で?」と先を促す。言い方はきついが今の私にとってはありがたい。こうやって強く聞き出されているような感じになれば、異動することを自慢しているようには見えないだろう。強い風が吹いたおかげで絡まっていたクモの巣から逃れることができた小さい虫の姿が目に浮かんだ。

こうして、私の行き先が広まったことで、色々な人が口々に私に新しい店舗に関する情報を教えてくれる。ただでさえ人の顔と名前を覚えるのが苦手なのに、まだ会ったことのない人の情報を覚えられるわけがない。いや、それ以前に、そもそも、まだ、私の心が現実に追い付いていない。慣れたオフィスがとても居心地の悪いものに感じる。急に、私が、異分子になってしまったような、そんな感じがする。私自身は何も変わっていないのに。

一通り喋り倒して、私の周りから人の影が消えた。業務の引継ぎをどう行えばいいか考えて準備しなければいけない。デスクの片付けもしなくては。あとは、何を。新しい家も一度探してみた方がいいのかしら。持っていくものは何があるかな。いらないものは捨てなくては。いろいろ考えを巡らせつつも、何から手を付けてよいかわからない。具体的に考えは浮かぶけれど、全てふわふわしていて、どこか現実味がない。でも、たまに話しかけに来る人々は、新しい配属先の話やここでの思い出話をしてくる。当たり前なんだけど、私を「もう居なくなる人」に位置付けて話をしてくる。本人以外のすべてがすんなりと現実を受け止めて次に進んでいて、肝心の私だけが取り残されている。そんな感じがする。私自身は何も変われていないのに。


退勤時間になった。
今の落ち着かない精神状態で残業をしても捗らないし、周りに気を使わせてしまうだろう。でも、家に帰って、このままひとりで過ごしていると、なんだか良くないことが起きるのではないかと、根拠のない思いが沸き上がる。何か気晴らしをした方がいいかもしれない。いつもと違う私自身に私が一番戸惑ってしまって、そんなことを考える。でも、パッと誘えそうな人は、異動する人へ渡す寄せ書きの準備の為に買い出しに行くことになっていたので、誰もつかまりそうにない。こういうときに、本当に私の居場所はないんだなと感じる。だから、それが嫌で、そんな現状を変えるためにも、転勤した方がいいんじゃないかと思っていたはずなのに、いざそうなると、何だか気持ちが落ち着かない。離れたくないほど今の職場に執着があるわけではないけど、もういられないほど嫌なことがあるわけではない。新しい場所も、嫌な場所ではなさそうだけれども、絶対行きたいわけではない。突き詰めていけば、別に、働きたいわけではないのだ。今の仕事が嫌なわけではないけれど、働かなくても生きていけるなら働きたくない。働いて絶対欲しいものがあるわけでもないし、生きていて絶対成し遂げたいことがあるわけでもない。でもまぁ、こうして転勤が決まったことによって、当面は新しい環境に慣れることが人生の目標になるから、漠然とした希死念慮を抱く余裕も無くなっていいかもしれない。生きる理由ができたとまではいかないけれど、人生に見切りをつける期限が延びたような気分だ。私の人生の大きな問題を先延ばしにした。


実際に今の職場を去るまでにはまだ少し時間がある。その間には、引継ぎや片付けや色々なことが行われて、いやおうなしに、目に見える形で、様々な準備が整っていくはずだ。そうなったら、周辺環境というか周りの反応というか、この目の前の現実に、徐々に、私自身も馴染んでいくんだろうか。希望がかなわなかった同僚との適切な距離の取り方も見つけられるんだろうか。きっとそうなるんだろうな。よくわからないけれど、そんな気がした。だって、みんな大人なんだから。

※この作品は、フィクションです。※

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