
定常あっての異常。死は生のうち。
都会では、通勤時、とりわけ朝は、同じ「箱」に乗り込むことが多く、見知った顏もできるが、その人が不意にいなくなっても、互いに若いこともあって、それが死に結びつくことはない。
ところが、都会であっても、人口の少ないムラ社会同様の状況が生じているなかでは、気配の消失が死を連想させることも少なくない。
たとえば、朝晩の散歩の際に出会う人。
同じ時間帯、ほぼ同じルートを歩いていると、すれ違う人もほぼ固定される。そして、気がつくと、ふっと消える。
「今日はいないなぁ」
「しばらく見ないな」
そして、
「死んだか?」。
もちろん、数日後、ちょっとした時間差であったり、道筋違いで見かけることがないわけではなく、それはそれで「生きてたか! 殺してごめん(苦笑)」となる。
老犬と散歩中、転んでじたばたしていたのを私が手助けした老婆は、その後、ひと月ほどして、ヨメか娘と復活したが、それもほどなくして消え、やがて老犬も消えた。
公園にヘルパーに車いすを押されてやって来て、ベンチの周囲で歩く練習をしていた老爺は、その後、自宅アパート前(と思われる)の歩道のガードレールを使って一人で歩行練習をするようになり、消えた。
そして今日もう一人。
老爺は肺を痛めていたのだろう、酸素ボンベを携行していた。駅のちかくで見かけるときは、電動セニアカーに乗っていた。土手の上にいるときは手曳きキャリーにボンベを乗せていた。
この男の家は判明していた。かつて男が営んでいた工場であったろう一階は土間になっており、いまは開放され、椅子やテーブルが置いてあり、ときにそこに座る老爺がいた。
今朝久しぶりに彼の家の前を通って土手に向かった。テーブルも椅子も撤去され、土間の奥にある上階への階段には、塞ぐように板が立てかけてある。セニアカーも見当たらない。片付けられていることから察するに、主は、帰還しないのだろう。そういえば、最近、姿を見かけなかった。
次はわたし、かも。
その不在は誰かにあれ?と感じさせるのだろうか。
死は生のうちにあり。
今日は天気も悪いので、旅に想いを馳せつつ、パラパラと。
北海道いきてぇー!
2021.05.05.ぶんろく