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葬式のはなし

母方の祖父が亡くなった。
突然だった。

いつも明るい母はその日も変わらず明るかった。
家に帰って話を聞くと、久しぶりに会った親族への不満を漏らして、呆れちゃうわと笑った。
その笑顔は少し、悲しみを湛えているような気がした。

人は死ぬんだな、と思った。
当たり前か。
別におじいちゃんっ子でもおばあちゃんっ子でもなかった僕は、深い悲しみに暮れることはなかった。
23歳まで身内の死を体験せずに生きてきたが、初めて経験する親族の死は、母から送られて来たたった3行のラインと、不在着信の通知という形をしていた。

命というのはつくづくもおしろい。
祖父が死んで、祖母の今後についてだったり、財産分与だったり、葬儀だったりとさまざまな問題が発生した。
兄は実家から1時間半ほど離れた職場のある市から帰省したし、大学生のいとこは東京から帰ってくるという。

祖父の死が家族を集結させた。
生きているときにはそんなことは起こらないのに、
いざ亡くなると、皆もうそこにいない祖父に会いにくるのだ。
祖父は人生の最後に、とてつもない熱量を生み出したと言える。
ちりぢりになってみんなの体に流れ込んだ祖父の魂がこの熱量を産んでいるような、そんな感じがした

同時に自分の死後のことを考えた。
祖父に上げられた有難いはずのお経は、どんなメッセージを持っているのか一切ピンとこなくて、なんだかあまり意味のないことのように感じられた。
人は霊になると言語体系が変わるということなのかもしれないなと自分を納得させたが、顔も知らない和尚さんの読経より、愛した家族の祈りの方がよっぽど故人に届くような気がしてしまった。

そこでふと、お葬式は故人を送り出すという名目で行われる遺族のための儀式なのだと気付いた。正しく死を受け止められるように、正しく悲しくなれるように

その一方で僕は、自分が死んでも葬式はしなくていいなと思った。
お墓もいらない。ただ死ぬまでにスカイダイビングがしてみたかったので、遺骨は粉々にして空から海にでも散骨してほしい。けど手間かかるしなあ、強いてお願いするとしたらって感じだ。
仏教徒ではないのでお経もいらないし、49日も仏壇も、お盆も、何もかもいらない。
ただ、もう何を問いかてけても応えがないことを、身体の熱に触れられないことを、少しの間だけ惜しんで欲しい。
自分の死はそういうものであって欲しい。

それにエゴ丸出しなお別れの方が、見送り甲斐もある気もするし。

人の死から、自分の死と生について考えた
そんな出来事のお話でした。

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