【映画】「神は見返りを求める」感想・レビュー・解説

いやー、なるほど、これは色々考えさせる良い映画だったなぁ。フィクションだと分かってても、「実際にどこかで起こっててもおかしくない」と思わせる物語だった。

まず物語の設定をざっと書いておこう。

イベント会社に勤める田母神は、人数合わせで参加させられた合コンでYouTuberのゆりちゃんと出会う。ゆりちゃんは、日々頑張って動画投稿をしているのだが、再生回数も登録者数もまったく伸びない。ゆりちゃんがイベント会社に勤める田母神に「使える着ぐるみはないか?」と助けを求めたところから、彼ら2人の共同作業による動画投稿が始まった。田母神は、運転手・物の手配・着ぐるみに入ってのダンス・撮影などなど、ゆりちゃんの活動にかなり協力している。編集が得意ではないゆりちゃんの代わりに、テロップをつける最後の仕上げをやってあげるほどだ。
しかしゆりちゃんのチャンネルは1年経ってもまったく伸びない。2人で1年以上頑張って、ようやく入ってきた広告収入はたった1500円だ。しかしそれでも田母神は、頑張っているゆりちゃんの手助けが出来ていることが楽しかったし、誇らしかった。
しかしある日、YouTuberのイベントを仕切っていた、田母神の同僚である梅川の紹介で、人気YouTuber・マイルズの2人と知り合い、その後、体当たりで望んだコラボ動画がバズり、一躍人気YouTuberの仲間入りを果たした。そうなってからも、田母神は変わらずゆりちゃんの手伝いをしていたが、新たに加わった優秀なデザイナーをブレーンにして、これまでとはまったく異なるクオリティの動画を作るようになったことで、センスの古い田母神は”邪魔”になってしまう。
ゆりちゃんは、これまでのことは感謝していると言いながらも、これからはもう関わらないでほしいと田母神に告げ……。
というような話です。

観ながらずっと、なるほどなー、と思っていた。

映画の作りは基本的に、「田母神に同情的」に構成されていると言っていいだろう。確かに、分かりやすく「共感」を得ようとすれば、それが正しい。ゆりちゃんの振る舞いを「良し」とする人も世の中にはいるとは思うが、やはり「酷い」「あんまりだ」と感じる人が多いのではないかと思う。

しかし、そう簡単に善悪を判断するのも難しい。

例えば、「幼い頃から天才的にピアノが上手い子供」がいるとしよう。最初は、近所のピアノ教室で教わっていた。というか、その教室でピアノを習い始めたことで、ピアノの楽しさに目覚め、凄まじい能力が開花していったのだ。しかしその教室ではもう教えることがなくなってしまう。あまりにレベルが違いすぎるからだ。そこでこの子供は、ピアノへの道を開いてくれたピアノ教室を離れ、より高いレベルへと進まなければならなくなる。

というような話なら、この子供の判断を「酷い」「あんまりだ」とは感じないはずだ。当然の判断だと感じる人の方がほとんどだろう。

さて、状況としては、この映画で描かれるのと、先程のピアノの例は、基本的に同じことを言っていると思う。しかし、その捉えられ方はまったく異なる。

たぶんその最大の理由は、この映画で扱われているのが「YouTuber」だからだ、と思う。この点についてはちょっと後で触れよう。

さて、後半の「ゴッドT」登場以降の展開はともかくとして、そこに至るまでの田母神の言動は、基本的に多くの人の共感され得るだろうと僕は思う。彼はある場面で、

【与えたものに対して、返そうという気持ちはないのか】

みたいな発言をするのだが、僕もまあシンプルにそう感じる。いや、僕も別に、「見返りを求めて何かをしている」なんてわけではない。先程のセリフに、ゆりちゃんが「お金がほしいってこと?それって見返りを求めてるってことじゃないの?」と返すのだが、さらに田母神は、

【困っている時に助け合うとかそういうことだよ】

みたいに言っていて、それは凄く理解できる。僕も、その時その時は自分の行動に対して何かを求めたりしているつもりはないが、ただ、もし僕が非常に困った状況に置かれた時に、助けを求めてもいい、ぐらいには考えたい。たぶんこういう感覚は、田母神のものとかなり近いだろうと思う。

さて、このような判断をこの記事では、「人間関係を優先する判断基準」と呼ぶことにしよう。田母神は、このような「人間関係を優先する判断基準」を持っている人物だ。

ゆりちゃんも、そうだと思っていた。それは、田母神も観客も、という意味だ。冒頭からしばらくの間、非常に平和なシーンが続くが、不器用ながらもお互いに出来ることを出し合って動画を作り上げていく過程や、お互いがお互いの存在を”必要”としている雰囲気などを感じられるだろうと思う。そんなゆりちゃんの姿から、彼女も「人間関係を優先する判断基準」を持っているのだと、田母神も判断しただろうし、観客も判断するだろう。

しかし、運を掴み一躍人気YouTuberとなったゆりちゃんは、あっさりと”豹変”する。それ以降の彼女は、「人生の成功を優先する判断基準」を持つようになった。

さて、映画を観ながらしばらく間、僕は、「ゆりちゃんが”豹変”したのだ」と思っていた。ゆりちゃんも元々は「人間関係を優先する判断基準」を持っていたのだが、人気YouTuberになったことで、「人生の成功を優先する判断基準」に変わったのだ、と。

しかし映画を観ていく内に、いやそうじゃないのか、と感じるようになった。恐らくゆりちゃんは、最初から「人生の成功を優先する判断基準」を持っていたのだ。田母神と動画制作をしていた頃は、「人生の成功」などとは無縁の生活だったから、その判断基準が表に出る幕がなかった、というだけの話なのだと思う。

そんな風に考えるようになったのは、ゆりちゃんがさほど葛藤することなく田母神を切り捨てていく過程を観ることになるからだ。なんというのか、ある種「爽快さ」を感じさせるくらい、ゆりちゃんはあっさりと田母神を排除していく。物語のテンポの都合で敢えてそういう描写を無くしたという可能性もあるが、フィクションなのだし、もしゆりちゃんが田母神に対して何か感じるところがあるなら、ちょっとはそういう部分が描かれてもいいと感じた。まったくないわけではないが、彼女があの場面で「ジェイコブ」を救ったことが、直接「田母神」に対する気持ちを表しているのかはなんとも言えない。そして、そういう描写がないということは、ゆりちゃんは最初から「人生の成功を優先する判断基準」で物事を判断していたということなのだろう。

そしてそれを、田母神は見誤った。しかし、まあ見誤るだろう。僕が田母神の立場でも、見誤ると思う。

この映画が上手く出来ているのは、ゆりちゃんとの関係が悪化するのと比例するように、田母神の周囲の状況も悪化の一途を辿っていくということだ。

恐らくだが、田母神の周囲の状況が悪化しなければ、彼はゆりちゃんに対する怒りを表立って見せることはしなかったと思う。そうであってほしい。田母神は、他人から頼られたら断れない「お人好し」であり、そうであるが故に、彼自身は他人に助けを求められない性格だと思う。普段なら、そういう自分の性格を「仕方ない」と流していられるだけの余裕が彼にはあったはずだ。

しかし田母神は、ゆりちゃんとの関係悪化と同時並行で、人生最大とも言えるピンチを抱えることになる。他人に助けを求めなければにっちもさっちもいかないと感じられるような状況だ。だから彼は、普段の彼らしさをかなぐり捨てて、ゆりちゃんに助けを求めた。

しかし、それがあっさりと断られてしまうのだ。

この描写があるからこそ、「ゴッドT」降臨以降の展開も、田母神にある程度以上の同情を向けることが出来る。田母神がゆりちゃんに、自身の置かれた危機的状況について説明していたかはわからない。僕の予想ではしていなかっただろう。ゆりちゃんにしても、もし聞いていればきっと、一肌脱ごうと思えたのではないか。しかし、たぶんゆりちゃんは知らなかった。だから、「成功したゆりちゃんにただお金の無心をする人」という風に見られてしまうことになるし、恐らくその意識が、田母神に対する幻滅を加速させたことだろうと思う。

たぶん、あとちょっと何かが違っていれば、2人はあんな酷い関係にはならずに済んだ。そして、その絶妙なバランスが見事に描かれている映画だと思う。どう見ても「可哀想」な側の田母神が、後半の振る舞いで「共感」から遠ざかってしまうところや、どう見ても「酷い」側のゆりちゃんを悪く捉えきれないところなど、善悪を簡単に割り切れない感じがとても良かったと思う。

さて、保留にした話をしよう。ピアノなら許容されるが、YouTuberだとそうはいかないという話だ。

僕は、普段YouTubeをまったく見ない。基本的に興味もない。だから、YouTuberに対して良いも悪いも特に感じていない。ただ、1つ明確に感じていることがある。それは、「YouTuberを『クリエイター』と呼ぶことには違和感がある」という点だ。

映画の中で印象的だった場面は色々あるが、ゆりちゃんがYouTuberとしての活動に立ち止まってしまうような場面は特に印象に残った。

例えばある場面で、ゆりちゃんは、チャンネルを共に支えてくれているデザイナーから、こんなことを言われる。

【ゆりちゃんがしていることなんて、誰でもできるんだから】

彼女が人気YouTuberになれたのは、人気YouTuberとのコラボで身体を張った企画をやり切ったことと、センスの良いデザイナーと巡り会えたことだ。企画を考え、画面に映るのはゆりちゃんなのだが、だからと言ってゆりちゃんの力だけで人気に火がついたわけではなく、というか現実的には、ゆりちゃんの力はあまり関係ないと言わざるを得ないだろう。

もちろん、出役だけではなくチーム全体で「クリエイター」なのだと考えれば、まあ成立はする。しかし、僕がYouTuberをクリエイターと呼びたくない理由は、別の場面のゆりちゃん自身の言葉にある。

【でも、映画や音楽みたいに、時代を超えて残るものじゃないから、寂しいよね】

これは、サイン会でファンに対して嘆く場面で口にする言葉なのだが、これに対してファンは、「残るものって、そんなに偉いんですか?」と、日々楽しい動画を作ってくれるゆりちゃんに対して敬意を表する。公式HPには、YouTubeに対して最初は偏見を持っていた監督が、YouTuberに対するリスペクトを込めて、この「残るものって、そんなに偉いんですか?」というセリフを書いた、というエピソードに触れられている。

さて、僕自身も、「残るかどうか」をそこまで重視しているわけではないのだが、感覚としてはそういうことだ。音楽も映画も小説もアートも建築もドラマもバラエティ番組も、基本的に「クリエイター」と呼ばれる人たちが生み出すものは、素晴らしいものであればあるほど時代を超えて残る。「残るものが偉いかどうか」は分からないが、僕の感覚としては、「時代を超えて残り得るものを生み出す人」のことを「クリエイター」と呼びたい気持ちがある。

そしてだからこそ僕は、「YouTuber」を「クリエイター」とは呼びたくないと感じてしまう。

たぶんこれは、世代間ギャップが生まれ得る感覚だろうと自分でも感じている。恐らく、若い世代であればあるほど、YouTuberやTikTokerなどを「クリエイター」と呼んで何の違和感も覚えないのだと思う。しかし恐らく、ある一定年齢以上の人は、YouTubeを普段から視聴していて、推しのYouTuberがいるのだとしても、彼らのことを「クリエイター」と呼ぶことに抵抗を感じてしまうのではないか、と僕は勝手に想像している。

先程のピアノの例であれば、ピアノへの関心を抱かせてくれたという意味で、最初のピアノ教室の先生は「最初にして最大の恩師」と言っていいだろうが、しかし、実力に見合ったレッスンを受けるためにその恩師の元を離れることが”当然”と受け取られるだろう。しかし、YouTuberの場合、それが”当然”という感覚を生まない(少なくとも、僕はそう感じられない)理由は、「YouTuberを『クリエイター』と認めたくない」という感覚にあるのではないかと僕は感じている。「再生回数」以外に、動画の良さを評価する指標が存在しないわけで、他の分野のような「より高いレベルに進む」ということへの理解が、まだ全人類共通のものになっていないと僕は思っている。

そう考えると、YouTuberを「クリエイター」として認めている人がこの映画を観た場合、恐らくゆりちゃん側に共感するということになるのだろう。それは、僕がこの映画を観たのと、まったく違った鑑賞体験だったと言っていいと思う。

さて、他の強く印象に残っているシーンを挙げると、映画の後半、田母神・ゆりちゃん・梅川の3人が喋っている場面だろう。梅川は最初から最後まで「クズ感」満載で出てくるのだが、この3人の場面である種のスッキリ感が得られもする。田母神もゆりちゃんもヤバいが、この映画の中で一番ヤバいのは梅川だろうなぁと思う。

そして、梅川に匹敵するぐらいヤバいのが、人気YouTuberマイルズの2人だろう。これも映画の後半、2人が病院で動画撮影をしている場面など、「YouTuberのイカれっぷり」を端的に表現できていてうわっと感じさせられた。

あとはやっぱり、田母神役のムロツヨシが絶妙だったなぁ。さすがです。あと、ゆりちゃん役の岸井ゆきのが、最初はホントに底辺YouTuberって感じだったのに、途中からメチャクチャイケてる人気YouTuberっぽい感じになるのも素晴らしい。北川景子や白石麻衣が演じたら、彼女のような底辺YouTuberっぽさは出なかっただろう。両極端な存在を、どちらも見事に演じる岸井ゆきのもまた素晴らしかった。

個人的には、映画のラストはもう少し描いてほしかった。別にどういう展開を望んでいるとかはない。田母神・ゆりちゃん共に、もうちょっとだけその先を見たかったと思う。「その先」など想像できないどん詰まりに行き着いてしまった2人だからこそ、あとほんの少し先まで描いてほしかったと思う。

しかし、とても良い映画だったと思う。色々と考えさせられたし、何も考えなくてもポップに観れる映画だ。


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長江貴士
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