【映画】「ヒトラー暗殺、13分の誤算」感想・レビュー・解説

1939年11月8日。ミュンヘンでアドルフ・ヒトラーの演説会が行われた。その会場である酒場が、爆破された。
その前日、会場周辺で怪しい動きをしていた男が拘束された。名前は、ゲオルク・エルザー。彼は独房のような場所でその爆発音を聞いた。
爆破事件の首謀者として尋問を受けることになったゲオルク。彼はそこで、ある事実を知る。
爆破によって、7人もの罪のない人が命を落とした。しかし、ヒトラーは死ななかった。爆発の13分前に、会場を後にしていたのだ。
捜査を担当するネーベと、ゲシュタポのミュラー局長は、ゲオルクを拷問に掛け尋問を続ける。しかしゲオルクは拷問に耐え、自分の名前さえ言うことを拒絶する。彼らは手段を変え、ゲオルクの元婚約者であったエルザを拘束し、ゲオルクに喋るよう迫った。
ゲオルクは観念し、単独でこの事件を起こしたことを供述する。しかし、ヒトラーから勅命を受けた上層部は、ゲオルクの単独犯、という事実に納得しない。黒幕を暴き出せ。ゲオルクへの尋問は続く。
ゲオルクは何故、ドイツ中がナチ一色となっていく中で暗殺を企てたのか…。

ゲオルク・エルザーという実在の人物の生涯を描いた映画です。ゲオルク・エルザーは、アドルフ・ヒトラーの暗殺を企て失敗、やがて処刑される。そして長い時を経て、ゲオルク・エルザーという反体制の闘士が存在したと評価されるに至ったのだそう。恐らくドイツでは、ヒーローとして有名な人物なのだろう。

映画を観終わった後で、日本で言ったら誰に当たるんだろう、と少し考えてみた。僕は歴史に詳しくないので適切な例が思い浮かばない。赤穂浪士や2.26事件などが頭に浮かぶが、単独でなかったり、あるいは、ドイツでは暗殺未遂された側であるヒトラーの方が暴走していたという評価になっているだろうが、2.26事件では(僕の認識では)暗殺(あるいは暗殺未遂)を企てた側が暴走していたという評価ではないかと思う。そういう意味でなかなか、日本に置き換えて適切な人物が思い浮かばない。

何故そんなことを考えたのかというと、この映画は、ドイツ人がゲオルク・エルザーに対して元々持っている考えや価値観抜きに評価するのは難しいのではないかと思うからだ。恐らくドイツで作成された映画なのだろうけど、であれば、「ドイツ人にとってあまりに当然であること」は映画の中では殊更には描かれないだろう。そしてその「ドイツ人にとってあまりに当然であること」は、例えば日本人にとっては当然の発想ではない。だから、ドイツ人がこの映画を見る場合と、ドイツ人以外がこの映画を見る場合では、見方が大分違うだろう、と思ったのだ。ドイツ人にとってのゲオルク・エルザー観を理解するために、日本人にとってゲオルク・エルザーに当たる人物は一体誰なのだろうか、と考えてみたのだ。

ドイツ人にとっては、ゲオルク・エルザーという人物への評価は、どこかの時点で大きく変わったのだろう。ナチ的な考えが色濃く残っていた時代には、ゲオルク・エルザーは極悪人扱いだっただろうが、その後ナチ的な考え方がひっくり返ると一転、ゲオルク・エルザーはヒーローとして見られるようになったはずだ。そういう価値観の変転という背景があって、さらにこの映画で、ゲオルク・エルザーという人物を再度評価しよう、というのが、ドイツ人のこの映画の捉え方になるはずだと思う。


しかし日本人には、ドイツ人が持っているはずのそういう背景はない。だからこそ、まったく知らなかったゲオルク・エルザーという人物(僕は歴史に無知なので、もしかしたら世界史の授業で習うぐらい有名な人物なのかもしれないけど)の生涯を眺める、という見方になる。そういう見方でもそれなりには楽しめるのだが、やはりドイツ人と同じレベルでこの映画を受け取ることは出来ないのだよなぁ、と思わされてしまったのだ。

ここ最近、事実をベースにした映画を見ることが多い。事実をベースにした映画というのは、映画としての評価はなかなか難しくなる。事実というのは大抵、ドラマチックでもエキサイティングでもない。可能な限り事実に忠実であろうとすればするほど、物語としての魅力を獲得することは難しくなる。その辺りをどうするのかというのが、脚本家や監督の力量なのだろうけど、どうしたって限度はある。

この映画でも、物語そのものは起伏が少ない。冒頭でゲオルク・エルザーが犯人だと分かるので、謎解きの要素は当然ない。ゲオルクが尋問され、供述していく過程は、事実を淡々と積み上げていくタイプの展開だ。ゲオルクの過去の回想シーンは、エルザという女性との関わりを中心に、ゲオルクがヒトラー暗殺に至るまでの様々なきっかけや心の動きを炙り出そうとする展開で、特にエルザとの関係はなかなか見応えがあった。しかしやはり、基本的には抑制の利いた起伏の少ない物語である。

ゲオルク・エルザーという人物に対する何らかの思い入れがあらかじめ観客の中にあれば、また違った見方になるだろう、と思った。しかし、ゲオルク・エルザーという人物に、この映画で初めて会う人間には、少し退屈が先行する映画かもしれない、と感じた。

僕自身の評価としては、やはり物語全体を捉えた時には、ちょっと退屈だなと感じた。ただ僕は、ゲオルクの闘い方の潔さみたいなものが凄く好きで、ゲオルクの生き方を観ながら、今の日本の状況と僕自身について考えた。

僕は、“みんな”というのが怖い。この感覚を理解してくれる人はいるだろうか?

ナチ党も、“みんな”の究極の一つだ。アドルフ・ヒトラーという先導者がいたことで、ヒトラーという人間にすべての批判が集中してしまいがちに思えるが、僕はヒトラーよりも、ヒトラーに扇動されてしまった“みんな”の方が怖い。理性的に考えれば、ヒトラーがドイツを掌握していた時代は狂っていたはずだ。しかし、その狂気に疑問を抱かず“みんな”に取り込まれてしまった人ばかりだった。これは何もドイツだけに限らない。日本だって、理性的に考えれば負けるに決っている戦争に、“みんな”で突入してしまったのだ。

こういう“みんな”の空気に逆らうことは、本当に難しい。日本人は特に、ムラ社会の論理が様々なところに残留している。ムラ社会も“みんな”の一つだ。国民性として、“みんな”に流されたり抗えなかったりするあり方が染み付いている。


ゲオルクは、“みんな”に逆らった男だ。あの時代、ナチ党がドイツ中を席巻する中で、自分の頭で考え、ヒトラーを殺さなければドイツは滅びる、と考えた。暗殺という手段はともかくとして、時代の空気に逆行する思考と行動を取ることが出来たというだけで、ゲオルクは賞賛に値すると僕は感じる。

現代の日本では、“みんな”はより複雑な形で存在している。かつて“みんな”というのは、ある意味でそれが社会のすべてだった。戦争に突入した日本国民全員という“みんな”も、他の地域との積極的な交流がない中でのムラ社会という“みんな”も、基本的にはそこに所属する者全員にとって、居場所のすべてであった。

しかし現代は違う。“みんな”はあちこちに存在し、しかも、自分が所属する“みんな”以外にも様々な“みんな”が存在していることを誰もが知っている、そういう世の中に僕らは生きている。だから、それまでは起こり得なかったはずの“みんな”と“みんな”の争いというのもそこかしこに偏在している。

誰もが複数の“みんな”に所属し、自分の思考や価値観を様々に切り分けながらそれぞれの“みんな”の中で生きている。それがもう、当たり前の状態として定着してしまっている。僕が説明した今のこの現状に、疑問を抱く人間はそう多くはないだろう。しかし僕には、この状況は異常に思える。

僕は、出来るだけ“みんな”に取り込まれたくない、と思って日々行動している。周りの人間が、その存在を意識してさえいない“みんな”という存在を恐怖し、戦略的に“みんな”から逃げようとしている。そうじゃなければ、自分が持ちこたえられないと分かっているからだ。

僕が生きている現代に存在する“みんな”は、それがあってもなくても誰かの生命に影響を及ぼすわけではない。しかし、ゲオルクがいた時代のドイツでは、“みんな”であるナチ党、そのトップであるヒトラーを殺さなければ誰かの生命に危険が及ぶ。そういう時代だった。そういう空気を感じ取っていた人は、ゲオルク以外にもいたかもしれない。しかし普通人間は、“みんな”に逆らえない。そんな中、自らの生命が危険にさらされることが分かった上で、それでもやらなければならない、と決断したゲオルクのそのあり方に、僕は共感するし、そういう生き方が出来ることを羨ましく思う。

厄介なのは、“みんな”の中で流されて生きている方が、楽だし得をするし危険に陥らない、ということだ。これはいつの時代どんな世の中でも大差はないだろう。しかしそれは、“みんな”が居場所のすべてだった時代にしか通用しない。
戦時中であれば、同じ人間でも敵なら殺しても咎められることはない。何故なら、“みんな”は国家さえも含むからだ。“みんな”が国家さえ含むような大きなものであれば、確かにそれに流されていれば楽だし、生きやすい。そういう生き方を選択した人間のことを、軽々しく責めることは難しい。

しかし、今の“みんな”はもう違う。国家まで含むような“みんな”は、SNSがこれほど広まった世の中ではもう存在し得ないだろう。有象無象の“みんな”が同時に存在する世の中では、“みんな”に従って生きることが正解かどうかは難しいところだ。自分がいる“みんな”のルールが、他の“みんな”でも通用するとは限らないからだ。恐らく通用しないことの方が多いだろう。今の世の中、“みんな”に従う生き方からは、認められたいという承認欲求や、孤独を紛らわせてくれるという感覚ぐらいのメリットしか得られないだろう。しかし、“みんな”に流されて生きることの安泰を知っている人類は、まだその生き方にすがろうとしてしまう。“みんな”から外れることの恐怖を細胞レベルで理解しているのか、“みんな”にしがみついてしまう。

そんな生き方を、僕は恐怖する。だからこそ、出来るだけ“みんな”に取り込まれないように努力しているつもりだ。

映画の内容とは大分かけ離れたが、ゲオルクの生き様を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。“みんな”に流される生き方をしている人にとっては、ゲオルクのような男は存在して欲しくないはずだ。“みんな”を壊すような裏切り者は、自分の居場所を奪うような蛮行に感じられるからだろう。だから、分からないが、もしかしたらゲオルクに共感できる人間はそう多くはないのかもしれない。ナチ党という“みんな”は、今自分がいる“みんな”と比べて明らかにダメだから、ダメな“みんな”をぶっ壊そうとしたゲオルクは良いよね、という判断をする者もいるかもしれない。しかしそういう人でも、心の奥底では、でも自分のいる“みんな”の中にゲオルクみたいな奴はいてほしくない、と思うだろう。何故なら、自分がいる“みんな”は、ナチ党という“みんな”とは違って素晴らしいからだ。そういう捉え方をする人は、心の奥底ではゲオルクに共感できないのではないか。

少し映画の話に戻そう。
ゲオルクは、地元の酒場で、ナチ党と共産党が小競り合いをしている最中、その小競り合いに加わらなかったという理由で「臆病者」だと指摘される。しかしゲオルクはそれに対してこう返す。

『臆病者で結構だ。暴力は、解決策にはならない』

そんなゲオルクが、ダイナマイトを使った爆弾を作成し、ヒトラーを暗殺しようと企てた。暴力を否定していたゲオルクだからこそ、暴力という手段を取らざるを得なかった切実さがにじみ出る、という見方も出来るし、また、人妻であるエルザに手を上げる夫とのかかわり合いの中から、暴力でしか解決できない事柄も存在すると考えを改めたのだ、という見方も出来るだろう。

『僕は自由だ。だから、正しいことをする。自由を失ったら死ぬ』

正しさは、その時々で変わる。ゲオルクがやったことは、その当時は死刑に値すると考えられ、後々、反体制の闘士の勇姿だと評される。しかし結局のところ、他者からの評価などどうでもいい、とも言える。ゲオルクは、ヒトラーは有害だと自分で考え、自分のその考えを現実に出現させるために爆弾を作る。彼は、自分の行いを徹底的に正しいと信じていた。拷問に掛けられようが、殴られようが、正しいことをするというその信念は曲げなかった。その強さ。“みんな”に囚われた世の中で、自分なりのどの“みんな”とも関わらない、オリジナルの正義を持ち続けた男の生き様には強く共感させられるし、こういう生き方が出来る人間でありたいと強く願う。

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長江貴士
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