見出し画像

(1.2) アドルフ・ヴュルツ『化学理論の歴史』:ラヴォアジエ Ⅱ

 アドルフ・ヴュルツ『化学理論の歴史─ラヴォアジエから今日まで─』 (Historie des doctrines chimiques depuis Lavoisier jusqu'à nos jours, 1868) の試訳です。ラヴォアジエ(全 4 回)の 2 回目。目次はこちら

Ⅱ.

 新時代はラヴォアジエとともに始まった。燃焼による金属の質量増加を認めたラヴォアジエは、決め手となる一連の実験を行うことで、これを裏付けた。そして、明快な考察によって、この現象を解き明かした。結果として、ラヴォアジエは、燃焼による金属の質量増加を、フロギストン説を否定する根拠とし、さらには新理論の出発点にもした。燃焼は、物質の分解ではなく、空気中の成分と可燃物とが結びつく化合である。燃焼が進むと、可燃物の質量は増加していく。その増加分は化合した気体の質量と見事に一致する。

  1774 年にプリーストリ Priestley が燃焼を促す気体を発見したことは、ラヴォアジエの理論を支持する新たな根拠となった。この気体が空気の一成分として含まれることをラヴォアジエは示し、この成分を酸素と呼んだ。これによって、燃焼における空気の働きがはっきりした。フロギストン説を最後まで擁護したキャベンディッシュ Cavendish やプリーストリ、そしてあのシェーレ Scheele も、修正を加えることで、シュタールの理論を成立させようとしたが、できなかった。彼らの主張では、空気は、燃えている物質からフロギストンを取り除く。プリーストリはこのように言っている。「気体に含まれるフロギストンが少ないほど、燃焼しやすくなる。空気はフロギストンをほとんど含まない。燃焼を促す空気の成分はフロギストンが全くなく、他の成分はフロギストンで飽和し、燃焼も促さない。」不燃性ガス(窒素)をフロギストンの飽和で説明することは、この説を擁護するどころか、破壊している。こうした説明についてラヴォアジエは、質量変化の点から、次のように反論した。「全体は部分より大きい。燃焼による生成物も元の物質より質量が増える。よって、生成物が元の物質の一部分になることはない。なぜなら、物質は、化学反応によって増えも減りもしない。燃焼によって質量が増えるのは、別の物質が加わるからである。逆に、金属灰、もしくは酸化物が金属に戻るのは、フロギストンが戻ってきたからではなく、含まれていた酸素が取り除かれたからである。」こうしてラヴォアジエは、金属が元素であることを初めて突き止め、単体の概念を一般的に定義した。ラヴォアジエによれば、単体とは、 1 種類の物質しか取り出せない、どんな作用を与えてもそれ以上分解できない物質のことである。ラヴォアジエは、数多くの単体に元素の性質を割り当てた。これによって、それまでの元素の概念は書き直され、元素が変換できるという夢も崩れ去った。この俗物らしい幻想に、フロギストン説を擁護する人たちは支持も反対もしなかった。実際、金属が単体だと分からなければ、私たちはこの幻想にとらわれ続けていたかもしれない。

 こうして定義された単体は、ラヴォアジエの理論によれば、互いに結合して化合物をつくることができた。しかも、結合によって物質は損なわれず、元の単体の質量は、化合物中でもそのまま保たれると考えられた。この大原則は、化学の根幹である。このことは、今でこそ疑う余地のない、極めて明白な公理のように、一般に受け入れられている。しかし、当時の状況は違っていた。ラヴォアジエの不朽の功績は、この原則を提唱し、さらには実証したことである。この原則で貫かれた一連の実証実験では、実験計画を工夫した上、結果を分かりやすく表し、厳格に論証を組み立てている。このことが、一連の実験を不朽のものにしている。これに匹敵する重要なものがあるとすれば、ラヴォアジエの実験法である。どんな化学反応にも天秤を用いるこの方法は、ラヴォアジエによって本格的に導入された。そのため、彼の考えた実験法と言える。定量分析自体は、キャベンディッシュ、ベルグマン Bergmann 、マーグラフ Margraf も用いていた。それでも、化学理論の研究で、反応物の質量を考慮することはなかった。この実験法が確立し、成果を得るようになったのは、ラヴォアジエからである。この実験法が、真に化学を研究する唯一の方法になった。これまで他の研究法に代わったことはなく、今後も、置き換わることは考えられない。

 酸化反応から研究を始めたラヴォアジエが、酸素とその化合物に一番の関心を向けたのは自然な流れである。ラヴォアジエは、酸素ガスが酸や塩の生成に欠かせないことを発見した。この酸化物の研究から得られた理論は、どの理論よりも重要なもので、他の化合物にも容易に適用できる。こうして普遍的な化学理論が、 1775 年頃、当時支配的であったシュタールの理論に対抗する形で登場した。ラヴォアジエの発見以後、論争が激化するなかで、フロギストン説をくつがえす発見をした者が、一番頑固なフロギストン説擁護者になった。それでも最後は、ラヴォアジエの理論が勝利を確実にした。1784 年、シェーレは 83 歳でこの世を去った。シュタールが唱えたようなフロギストン説を全面的には支持していなかったシェーレでも、フロギストンの存在は精力的に擁護した。やはり習慣は私たちの主人である。同じく 1784 年、ベルトレ Berthollet をはじめとするフランス全土の啓蒙家がラヴォアジエの理論に魅了されるなか、キャベンディッシュは、フロギストン説を擁護する、精巧で見事な理論を発表した。その後、キャベンディッシュはフロギストン説を擁護しなくなるが、それでも、ラヴォアジエの理論に降伏したわけではなかった。プリーストリも、ラヴォアジエの理論に反対し続けた。そして、 1804 年にサスケハナ川の源流近くで亡くなるまで、その休むことを知らない精神と頑固さをアメリカに持ち込んだ。ラヴォアジエの方は、働き盛りの年齢で、充実した研究活動を終えなければならなかった。それでも、これほど大きな革新を起こし、しかも、自身の理論が最終的に勝利するのを見届けられたので、ラヴォアジエは満足していた。 1794 年、フランス革命のギロチンによって、その人生に終止符が打たれた日、ラヴォアジエの理論は、良識ある大多数の人々に受けられていた。それでもなお、若干の反対派が声を上げようとしていたが、すでに批判されていたフロギストン説の崩壊を止めることはできなかった。