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(1.1) アドルフ・ヴュルツ『化学理論の歴史』:ラヴォアジエⅠ

Ⅰ.

 ラヴォアジエの理論の大きな特徴として、反フロギストン説であることが挙げられる。ラヴォアジエは、 17 世紀末に提唱されたシュタールの名高い理論、「フロギストン説」を否定している。優れた化学者で医師でもあったシュタールは、フロギストン説の着想をベッヒャー Becher ¹の著作から得た。錬金術の影響を強く受けたベッヒャーによれば、金属には可燃性を司る元素、「燃える土」が含まれていた。ベッヒャーの休むことを知らない精神や、冒険に満ちた人生は、まさに錬金術師であった。しかし、錬金術が衰退しつつあったなかで、そのようなベッヒャーの説は、もはや支持できるふうには見えなかった。そのため、発表当初はほとんど注目されなかった。この説を明確なものにし、世に知らしめるには、説得力をもって解説できる人が必要だった。その人は、シュタールのなかに見つけることができる。シュタールは「私が述べることは、ベッヒャーによるもの (Becheriana sunt quae profero) 」と書いたが、実際は、ベッヒャーの学説を独自のものにしている。シュタールは、ベッヒャーの学説を整理し一般化することで、一つの理論へと発展させた²。ベッヒャーの「燃える土」には、フロギストンという名が付いた。シュタールによれば、フロギストンという捉えがたい元素が金属や可燃性の物質には存在し、燃焼や焼成によって失われる。金属を空気中で燃やすと、フロギストンが放出されると同時に、光沢を失った金属灰になる。赤熱した鉄をハンマーで叩くと、火花が飛び散る。この正体は、鉄からフロギストンが抜けたものである。また、鉛を長時間焼成することで、リサージという黄色粉末が得られる。この粉末も、鉛からフロギストンが取り除かれて出来ている。不燃性の物質とは、フロギストンを失った物質のことで、可燃性の物質とは、この元素を豊富に含む物質のことを言う。そして、ものが燃える要因は、フロギストンが激しく放出されることにある。物質を燃やすと分解し、燃えかすには元の物質の元素が残る。したがって、金属灰、もしくは金属を焼成したものには、フロギストンを放出した後の金属が含まれる。これに、炭、材木、油といったフロギストンを豊富に含む物質を加えて一緒に熱すると、元の金属に戻すことができる。実際、リサージを木炭粉末と一緒に燃やすことで、金属鉛が回収できる。これは、木炭から飛び出したフロギストンと結合することで、リサージがもとの鉛に戻ったためである。

 化学理論の成否は、他の理論よりも多くの事象を、より広範囲に適用できるかで決まる。フロギストン説の場合、相反する現象のどちらにも適用することができ、両者を理論的に関連付けている。空気中での金属の焼成と、それに伴う金属から金属灰への変化、さらには燃焼という現象までをも、フロギストン説は一度に説明できた。また、真逆の現象である還元にも、非常に分かりやすい説明が与えられた。

 ところで、物が燃えるのに、なぜ空気が必要なのだろう。この点に関して、フロギストン説は何も言っていない。しかし、燃焼時に空気がなくてはならないことは、フロギストン説が出る以前から、研究者の観察によって予想されていた。 1630 年にはすでに、ペリゴール出身の医師ジャン・レイ Jean Rey が、そのことを指摘している。ロンドン王立協会の初代会長で、真の意味で最初の化学者になったロバート・ボイル Robert Boyle は、レイによって指摘された、燃焼による金属の質量増加を実証した。また、密閉容器中で鉛がリサージに変化すると、容器内の空気の体積が減少するという重要な指摘もしている。さらに、空気には、呼吸や燃焼によって消費される成分があることも観察していた。ボイルと同世代で、同郷でもあるジョン・メーヨー John Mayow は、 1669 年以来、空気は単一の物質ではなく、その中に、燃焼を助ける成分が入っていると考えた。しかも、その成分³は、空気中の燃焼によって取り除かれ、また、肺の中の血液によっても吸収されるものであった。

 しかし、こうした観察が、化学理論に寄与することはなかった。 観察しても、全く相手にされないか、本質を外した、誤った説明で済まされた。ロバート・ボイルは、燃焼による金属の質量増加を、熱の吸収によるものとして説明していた。シュタールもこの現象を知っていて、指摘もしている。ところが、副次的な現象と考えていたため、その原因については触れられていない。

 この時代の化学者は、化学反応の見た目だけに着目して、いわゆる定性的な面を超えて考察することがなかった。反応の量的関係に関する研究は、化学理論にとって無意味で余計なものと見なされ、取り上げられなかった。少なくとも、化学理論の研究としては忘れ去られていった。

原注

¹ ジャン・ヨアヒム・ベッヒャーは 1635 年にシュパイアーで生まれ、1682 年にイギリスで亡くなった。金属の性質に関する彼の着想は、1669 年の著書 『地下の自然学』Acta Laboratorii Chymici Monacensis, seu Physicae Subterranae ではじめて登場する。この着想は、最後の著書『鉱物ABC』 Alphabetum Minerale seu viginti quatuor theses Chymicae (1682年) で本格的にまとめられた。

² ゲオルグ・エルネスト・シュタールは、1660年にアンスバッハに生まれ、1734年に亡くなった、プロイセン王の侍医である。1697年に出版された最初の化学文献『発酵の一般理論』 Zymotechnia fundamentalis sive fermentalionis theoria generali では、すでにフロギストン説の大枠が、ベッヒャーの説に対する支持とともに見られる。1702年にベッヒャーの Physicae Subterranae を新しい版で出版した後は、主に次の著作でフロギストン説を展開した。『ベッヒャー例解』 Specimen Becherianum, fundamenta, documenta et experimenta sistens; 『300の化学・物理実験』Experimenta, observationes, animadversiones, ccc. numero, Chymicae et Physicae (1731 年) 。

³ 硝空気粒子 Particulae nitro-aëreae と名付けられた。

訳注

*¹ 「1680年、ボイルは王立協会会長に選ばれたが、プロテスタントとしての信念に基づいて就任の際の誓いの内容にためらいを覚え、会長職を辞退している。」 (Wikipedia より)