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(0) アドルフ・ヴュルツ『化学理論の歴史』:序文

 化学はフランスの学問である。それは、不朽の功績をもつフランスの化学者、ラヴォアジェ Lavoisier から始まった。何世紀もの間、化学は、錬金術や、後にはイアトロ化学でも使われた、曖昧で間違いも散見されるような実験手順書の寄せ集めに過ぎなかった。かの偉人、ゲオルグ・エルンスト・シュタール George Ernst Stahl でさえ、 18 世紀初頭、化学を学問にしようとして失敗している。シュタールの化学では、実証にも、ラヴォアジェの厳しい批判にも耐えられなかった。

 ラヴォアジェの功績にはいくつかの側面がある。ひとつは新理論を提唱したことだが、同時に、化学としてあるべき実験法も確立している。この実験法の優位性が、ラヴォアジェの理論を飛躍させた。物が燃えるという現象を正確に記述することで生まれたラヴォアジェの理論は、当時知られていた重要な実験を、すべて説明できた。この理論は、内容の正確さはもとより、適用範囲の広さも兼ね備え、体系立てられていた。 15 年間の論争の末、ラヴォアジェの理論が完全な勝利を収めると、それから半世紀以上、疑いようもないものになった。ラヴォアジェの後を継いだ化学者は、ラヴォアジェの理論の修正や発展に従事した。それでも、無機化合物中心の彼らの研究や理論では、すべての分野を説明し尽くすことはできなかった。その頃の有機化学は、動植物由来の物質に含まれる成分について、その性質を調べるのが精一杯であった。発見の才覚をもつ研究者が、貴重な資料を多く集めても、それらを整理するための学問がなかった。その学問の原理も未解明のなか、有機化合物の反応の研究だけが、この原理を明らかにすることができた。有機化学の目的は、有機化合物の原子配列から、その化合物の性質を説明し、他の化合物と関連付けることにある。その方法として、有機化合物を構成する原子の種類と個数を分析し、分子の成り立ちと変化の仕方を考察する。こうした研究が、 1830 年以降、精力的に取り組まれ、順調に進められている。まだ道半ばではあるものの、どれだけ多くの知見が、これまでに積み上げられてきたか。今や、記憶しきれないほどである。ラヴォアジェの時代から 100 倍に増えたと言っても過言ではないだろう。そうなると、ラヴォアジェの理論体系では間に合わなくなる。視野が広がったことで、物の見方も新しくなった。有機化合物の研究から生まれた、その分野のための化学理論が、発展の結果、有機化学と無機化学の境界を越えたとしたら、驚くべきことではなかろうか。ところが、有機化学の理論は、これを成し遂げた。現在では、化学の全分野を網羅している。化学が 1 つしかないと言えるのは、このためである。

 これほど大きな功績は、一朝一夕の研究や変革では得られない。ゆるやかではあっても、決して歩みを止めなかった研究の成果である。途中の経過を傍に置き、始まりの頃だけを見比べれば、化学の発展の計り知れないことは認めざるを得ない。当時と比較して今日の化学は、規模だけでなく、内容も見違えるほど変化している。

 では、化学理論は完成し、否応なく進んできた発展の道のりも、完全に切り開かれたのだろうか。私はそう思わない。それでも、これまでの発展の大きさからいって、進んでいる方角に間違いはない。そこで、いったん立ち止まって、これまで歩んできた道のりに目を向けたい。そして、今いる到達地点を、確信をもって示そうと思う。