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ヴィクトルツォイを深堀りしてみる

Здравствуйте! 
BUNKER TOKYO研究員のリュウセイです。

BUNKER TOKYOでは現在ヴィクトルツォイウィーク開催中!ということで今回はロシアでのロックの神様ことヴィクトル・ツォイについて語らせていただこうと思っております。

リニューアル後さまざまなイベントを行なってきましたが、その中でも要望の多かったКиноにフィーチャーしたイベントがついに!!!これも同志の皆様のおかげです!本当にありがとうございます!!

イベント詳細はこちら

28歳という若さで亡くなってしまったロシアのレジェンド的ミュージシャン、ヴィクトル・ツォイ。よくロック界では天才は27歳で亡くなるという逸話がありますが、カート・コバーンやジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス、日本では尾崎豊といった大スターはいずれも短命。ツォイも鉄のカーテンの中で大スターだったんですね。
ペレストロイカ期の80年代後半にはソ連国外でもライブを行ない、人気のあったアーティストです。

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1989年に出たフランス版のレコード”Le Dernier Des Héros" 
同年1月にモスクワで録音したものをパリでミックスして制作。ロシアではのちに"Последний Герой"というタイトルでリリースされている。仏語、露語ともに意味は「最後の英雄」。アルバム名は曲のタイトルから来ている

ではここからはツォイと彼の率いたグループ、キノーの軌跡を振り返っていきましょう。

①ヴィクトル・ツォイという男

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まずは略歴をば。
1962年6月21日のレニングラード(現サンクトペテルブルク)で、カザフ出身の高麗人の父とロシア人の母のもとに生誕。
このころのソ連はというと「雪解け」と呼ばれる時代で言論の自由などが少しばかり緩和された時代ですね。ツォイ生誕の翌年は反動でフルシチョフが警告を発し、社会主義リアリズムを強調した年でしたが…。

さてさてそんな自由と規制の間の時代に生まれたツォイですが、10代のころは美術学校にも通っていました。成績不振で放校されてしまっていますが、彼の絵もキースへリングの描くポップアートのような雰囲気があってかわいいものが残っています。紹介するのはいずれも80年代のもの。

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Rock Concert 

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Love Story

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Murder

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Untitled

放校されてしまったのち別の学校で木工職人の技術を習得。日本の根付を彫刻で製作したり、西側ミュージシャンの肖像画を闇市で販売して生計を立てていたそうな。

学生時代にもバンドを組んでいたツォイはミハイル・ボヤルスキーやヴラジーミル・ヴィソツキーのファンで、ほかにもブルース・リーにも憧れ強い影響を受けています。19ssでVetementがリリースしたツォイのグラフィックも知らない人が見ればブルース・リー?って思うようなもの。実際そう聞かれたこともある人もいるようです、笑

さらに余談なのですがヴィソツキーというとタモリ倶楽部の人気コーナー空耳アワーで紹介されたオオカミ狩りが日本でも話題になった時期が。新井栄一さんが日本語でカバーもしています。しゃがれ声で歌い上げるかっこいいロックなのでこちらもぜひ調べてみてください。

②ソ連での活躍

以前のブログでも紹介させていただきましたが、1982年にはソ連音楽界に重大な出来事が起きました。そう、レニングラードロッククラブの誕生です。

ツォイ率いるキノーもここの会員でライブ演奏をしていた記録が残っています。

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映画『LETO』で描かれたのもここでのストーリー。もっとも、この映画は伝記映画というよりはフィクションとしての側面が強いらしく、映画内で描かれていることが事実でないことも多いようなのでご注意を笑

また、現在でもロシアロックの大御所的存在Аквариум(アクアリウム)もここから人気になっていったバンド。映画を観た方にはおなじみЗоопарк(ズーパルク)のマイクも元々はこのバンドに所属していました。

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中でもツォイ、ひいてはキノーのキャリアを助けたのはアクアリウムのフロントマン、ボリス。

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キノーは当初「ガーリンと双曲面」というバンド名でしたがこの頃にキノーに改名。
ファーストアルバムの『45』もボリスたちアクアリウムの協力のもと完成。
タイトルは収録時間からきています

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その後も毎年新譜を発表し続けたキノー。

1983年の『46
こちらのアルバムは実は次に出たアルバムのデモ版のつもりだったそうで。

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1984年『Начальник Камчатки』(カムチャッカの首長)
『46』と収録曲が結構被ってたりします。
キノー初のエレクトロニックアルバム

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1985年 『Это не любовь』(こんなの愛じゃない)

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1986年 『Ночь』(夜)

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キノーは当時、ソ連唯一にして国営のレコード会社メロディヤとの契約をしていませんでしたが、オリジナルのテープを出していき徐々にソ連国内で話題になり始めました。しかし、そのテープも高額だったため粗悪な海賊版が出回っていたとのこと。ちなみにウォッカ3瓶分の値段だったそう。

そんな中、バンドには内緒でこの『Ночь』がついにメロディヤから販売されます

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このアルバムは200万以上の売り上げを叩き出し、ソ連全土にキノーの名を轟かせることに。この頃から人気が加速していきます。

このアルバムの出た翌年ツォイは『Асса』(Assa/アッサ)という映画に本人役として出演。

ラストシーンでХочу переменを歌い時代の寵児へとなります。この曲、本人としては政治的な意味は全く込めたつもりはないようですが(すべての曲の歌詞を通してツォイは政治的なメッセージを使おうとしなかった)変化を願う歌詞が自由を求める人々の気持ちを代弁するようで非公式のソ連国歌と呼ばれる勢いで大ヒット。

実は昨年(2020年)ベラルーシの反政府デモでもテーマ曲に取り上げられ脚光を浴びていました

ちなみに『Асса』はモスフィルムさんがYoutubeで無料公開してくださっています

さらに翌年『Игла(The Needle/僕の無事を祈ってくれ)』という映画に主演として出演。映画音楽もツォイが手掛けました。

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この映画の主題歌ともなったГруппа крови(血液型)はキノーの代表曲ともいえる一曲。のちにアメリカのファンの要望で作った英語での歌唱バージョンもあるほど。

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2002年にリリースされたアルバム『Последние записи』に英語版が収録されています

また、アメリカの大人気バンドメタリカもライブでカバーしたこともあります。

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また、このアルバムの次に出たものも名盤と名高い一枚。Звезда по имени солнце(太陽という名の星)は映画『Игла』の冒頭にも使われており、このアルバムのアートワークは今でもキノーの代名詞的に使われています

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1989年にリリースされたのが上の画像。のちにリリースされた下の画像のデザインは現在でもよく見かけますね

今回BUNKER TOKYOで限定リリースされたSVARKAのフーディのグラフィックデザインもここからきています。
せっかくなのでここからはイベント詳細として入荷商品の紹介もさせていただきます。

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また、今回コルパシェヴォのレザーブランドCorridaに限定で作ってもらった財布の記事もこの曲がベースになった言い回し!"ヴィクトルという名のスター"

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他にもツォイの写真が盛り沢山なものやライブ時の写真などのデザインも。ブランドについては過去の記事もぜひご覧ください。

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さらにファッションの紹介に戻ります。
今回SVARKAとBUNKER TOKYOが共同で製作したスペシャルコレクションはなんといってもツォイ本人が着ていたものがインスピレーション源。
袖捲りもできるレザージャケットは着るとまさにツォイ。あまりの人気に初日完売でした!
ありがとうございました!!

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モデルをしてくださったナカジさん、たかさんありがとうございました!

パンツもこのシルエットにツォイらしさを感じます。
蛇足ですが、ツォイのファッションといえばジーンズも思い浮かびますね。当時ソ連ではデニムを持っていること自体がステータス、ファッショナブルなことを表したようでサイズが合わずとも無理して履いていた人もいるとか、、、
ソ連のジーンズ事情はこちらの記事もおすすめです。

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女性用ルックのバージョンもかっこいい、、、


さらに黄色のロンTも本人が着ていた色。

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黒のバージョンは後述するアルバム『Чёрный альбом』のデザインが元だったりもします。こちらも完売御礼!

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日本でもトップクラスに有名なソ連時代からの時計ブランドВосток(Vostok/ボストーク)が限定で出していたヴィンテージの腕時計も入荷しております。デッドストックの完動品で、ここまで状態がいいものが出るのは今後なさそうな激レアもの……

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さらにはオセアニアからはコインコレクターの間で人気なニウエコインより、ツォイのデザインのものも。

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2010年の製作。ニウエコインはそのデザイン性の高さや、銀貨であることから世界で最もコレクターの多いコインと言われるような代物です。

それではキノー、ツォイの紹介に戻ります。

③外国でのツォイ

さて、キノーがソ連国内で大ヒットを飛ばした頃になってくるとソ連情勢にも変化が訪れていました。そう、1980年代後半、ゴルバチョフによるペレストロイカです。
知名度が上がったや規制緩和もあり,キノーは国外でも活動をするようになります。

例えばこちらはデンマークでのライブの様子

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慈善フェスティバル「ネクスト・ストップ」というイベント。

また、フランスやイタリアでのロックフェスにも参加し演奏しました。

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イタリアでのツォイ

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フランスでのツォイ

観光も楽しんでたようでほっこり。
アメリカでも「パークシティフェスティバル」で映画『Игла』が公開された後、一度だけ演奏しています。

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来日したこともありました。
なんとサザンの桑田さんとの写真が残っています

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映画のプロモーションで来日していた時にサザンのライブに招待されたとのことだそう。ツォイはサザンのライブに感銘を受け、彼らを「日本語の現代版フランクシナトラ」と表現。

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ヤマハの黒いギターをプレゼントされ嬉しそうなツォイの写真も残っています。

ちなみに『Группа крови』のアルバムは日本版も『ブラッド・タイプ』としてリリースされてました。キノーではなくキーノ、なぜ笑

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③悲劇

国外でも人気を得てきていたキノー。
ソ連でも1990年6月24日、ルジニキスタジアムで行なったライブでそれまで滅多につけられてこなかったオリンピックの炎に火を灯し大盛況のライブを行うなど、人気絶頂の時期。

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それ以前は
①1980年のモスクワオリンピック
②1985年の世界青年・学生祭典
③1986年の親善大会
④1989年のモスクワ国際平和祭典
の4回だけ火が灯された

そんな時期の1990年8月15日。ツォイはラトビアで交通事故に遭い亡くなってしまいます。
突然の訃報に悲しみのあまり後追い自殺をしてしまうファンもいたほど。

ちなみに、この訃報を聞いた人物がモスクワのとある壁に「今日ツォイが死んだ」と書き、そこにキノーのファンが ЦОЙ ЖИВ(ツォイは生きている)と書き足したことから有名なツォイの壁が出来上がりました。

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このようなキノーのファンアートが集まった壁は旧ソ連領の至る所にあるらしく、ツォイの育った地であるサンクトペテルブルクや映画でゆかりのあるカザフスタン。ウクライナのキエフや、ベラルーシのミンスクでも見られるそうです。
こちらはエカテリンブルクの一例。

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写真はロシア文学者の松下隆志さんより

ツォイが亡くなってしまった後に、残されたバンドメンバーが作ったのが『Чёрный альбом(黒いアルバム)』と呼ばれるこちら

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1990年12月にリリースされキノーは解散となりました。

④後世への影響

多くの名曲を残したツォイは現在でも多くの人に影響を与えています。
例えば『Чёрный альбом』に収録されたКукушкаという曲は、2015年に制作された映画『ロシアンスナイパー』のテーマ曲としてポリーナ・ガガーリナがカバーしていたり、平昌オリンピックでメドベージェワ選手が使用したりと近年でも多くの人が愛する一曲。

また、キノーの曲を使ったトリビュートアルバムが作られていたりもします。

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ロシアのミュージシャンたちによるカバーが盛り沢山。
祈念コンサートも行われていたりするので30年以上経った今でもロシアの何処かでは耳にするキノーの音楽。

ツォイのボーカルのみを音源化したものを流し、昔のバンドメンバーが生演奏する特別ライブも今年行われました。

また、『LETO』以外にもツォイをテーマにした映画が作られていたりもします。
タイトルはまんま『Цой』。事故を起こしてしまった相手のドライバー目線で語られる現代のツォイ像。日本未公開ですがいつかは観たい…。

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SNSでも #Цойжив などで検索すると毎日新しい投稿があるほど愛されて止まないヴィクトル・ツォイ。
一度聴いて響かなくてもジワジワと良いと思える最高のロックスター。最近ではApple MusicやSpotifyなどのストリーミングサービスでも聴くことができるバンドですので、ぜひ皆様もお気に入りの一曲を見つけてみてください。

Ryusei

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