怒(いか)れるけど怒(おこ)れない
今日、個人的に困る出来事が起きた。
初めての仕事を任され、ほぼ一日外にいた。
事務所で仕事ができないことを見越して、かなりいろんな業務を巻いて備えていた。だからきっと大丈夫。
必要な業務は切り分け、後輩に託し、終わっている、はず。
外の仕事を終えて、事務所に戻りしだいキツイけど、その終わっている前提の業務を仕上げる。つもりだった。
梅雨も終わり、蝉の声も聞こえ始め突然夏の始まりを迎えた今日。
もちろん猛暑ですごく体力を奪われる一日だった。
「やっと、やっと、、終わった、、。多少きついけど、定時少しだけ仕事を終わらせてから帰ろう。」と、疲労する体に鞭を打ち、仕事していた時だった。
「あれ…これ…おかしい…。」
できているはずのものが、自分が思っていたものと少し違う形で出来上がっている。…あれ、そんなはずは…。
業務を任せていたはずの後輩に聞いてみる。
「あのこれってさ、どうやってやった??」
聞いてみると完全にミスをしていたことがわかった。
おそらく、業務の合理化を図ったが故に、見落としていた作業ミスだった。
(えええ確認したら一目瞭然では…?!)
と思いつつ、私の頭の中はパニックになっていた。
なぜなら、1人でやれば数時間かかる業務が全て一からやり直しになることを知っていたからだ。
絶望でしかなかった。
・なぜ確認せずに手を抜いたのか(丁寧にやれば起きないミスだと捉えた)
・身体的なしんどさ故に、動揺が隠せない、まずい
(他人に対して攻撃性がある可能性があるときは基本的には空間から退出するようにしていた)
さまざまな思考がよぎる。
怒るべきか、怒らないべきか。
これは、「おこる」だ。
なぜしっかり確認しなかったのか。確認したら明らかに異変に気づけるはず。
や、そもそも異変に気づくのは私のこれまでの前提があるからじゃないか。
もっとしっかり手順を伝えて、注意点も伝えればよかったんじゃないか。
ここで私が怒ったとて、感情的に伝わってしまったら元も子もないじゃないか。
「いかる」ことは、やろうと思えば簡単だったかもしれない。
何かに対して「怒り」を覚えて、それを伝えてきたことも過去にはある。
ただ、私は「怒(おこ)る」ことが非常に苦手なのだ。
怒ることに対して付随する感情が、受け手に対する無駄な負荷をかける可能性があることを考えてしまうからだ。
私としては、意味が伝わることが最優先なので、感情が邪魔になる時は、要素としてはぶく。
(まじか…。今から全てやり直し…?まじか…。全ての段取ったはずの工程が狂いに狂い、私もこのへとへとの中、数時間かけてやり直す…?もはや夜が明けるのでは…?)
頭がパニックになる中、
「大丈夫!まだ余裕あるから!」
気づけば後輩に声をかけていた。
自信がなかっただけだった。
「これを、こうやってやるのだ」ということ以上に
「なぜ確認しなかったのか、見ればわかるのに」という身体的負荷による制御できないままの感情が、言葉が出ることを恐れた。
上司だったら、時と場合によっては感情に任せて糾弾していたかもしれない。しないかもしれないが。
私はそうならないという謎の倫理観も無駄に際立ち、何も言えなかった。
むしろ、
「動揺している=感情的になった様子をみて、気にしていないか。」
と、後輩が気になってしまった。
この件に関しては、先輩が
「みんなで分担しよう!」
って提案してくれた分、かなり早く修正することができた。
先輩がそう言い出さなかったら今頃私は事務所でパソコンを一人で鳴らしていたはずだ。
これを書いている今、全く消化できず、ずっとそのことについて考えていた。
「怒(いか)れるけど怒(おこ)れない」って、人間的にかなり貧しいのではとも思ったりするのだ。
もちろん、今日の正解はわかる。
きちんと指摘、怒(おこ)るべきだった。
後輩に対し、明らかに欠けていた視点について伝えるべきだった。
それが適切に伝えられる自信がなく逃げただけだった。
おそらく私の考えすぎであることもある程度想像はつく。
実際、後輩はその修正後、別件で相談を私に持ちかけた。
私が話しかけられないほどの状態でなかったことは理解できたので、安心はした。(どんなに忙しい状態でも”聞きやすい”人であることが理想のため)
追記
この日の夜、眠れないんじゃないかとも思い、横にいたパートナーに聞いてみた。
「俺はまじでそういうのわからない」というなんと共感性のなさという返事が返ってきたものの、
「本人だって、「あ、間違えた、迷惑をかけた」と自覚してるんでしょ?それで良くない?」
と、ふと言われ、腑に落ちた。
確かに、失敗によって、やり直しの作業が発生し、複数名巻き込んだ&既に定時後という自体がそういう思考にさせるのだから、確かに怒らないままでもちゃんと事は伝わったのだと思った。
この日は力尽きてそのまま眠った。