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奥多摩・峰集落のレポート
奥多摩にある廃村の跡が残る峰集落に訪れた。そのルポをnoteに記録しておく。
集落の概要
峰集落は昭和47年に最後の住人が下山したことで廃村となった。峰に残された板碑によるとこの集落は552年間続いたことと推測できる。
氏神の日天様が集落では祀られておりその存在は享保三年に書かれた「武蔵国多摩郡三田領棚沢村麁絵圖」に見られる。峰を含めた棚澤集落一体には数多くの板碑が残されているがその多くが多摩川より北にあることから、またその碑に使われている石材が長瀞のものと一致するものが多いことからこの地方には秩父地方から流れてきた武士が住み着いたと推測できる。集落はあたりを山に囲われており周辺には入川が流れている。最盛期には数十軒の家がありこれは江戸でおきた振袖火事で木材の需要が跳ね上がったことにより多くの森林を抱える多摩地方一体が繁盛したためである。
峰集落といえば民俗学者の柳田國男が訪れたことで有名である。彼は1899年に青梅駅から吉野街道と慈恩寺坂を通って峰にたどり着き二泊過ごした。当時峰に存在した家は7軒でこれが峰七軒と呼ばれた。各家には屋号がある
一軒目は、屋号「大盡」福島文長。この集落で一番栄えたであろう人物である。家は峰の中で最も高地にあり邸宅跡も広い。柳田國男が泊まった家も彼の邸宅であり資料はよく残っている。柳田が書いた「後狩詞記」に詳細が残っている。
以下後狩詞記から
「これに付けて一つの閉話を想出すのは、武識の玉川の上流棚澤の奥で字峯といふ所に峯の大盡本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。十年前の夏此家に行って二晩とまり。羚羊(カモシカ)の角でこしらへたパイプを貰ったことがある。東京から十六里の山奥でありながら、羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。此家の様に腰を掛けて狩の話を聴いた。小丹波川の源頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。其穴の口で此の熊(今は敷皮となつて居る)を撃つたときに手袋の上から二所爪を立てられて此傷を受けた。此犬は血だらけになって死ぬかと思つたと言つて、主人が犬の毛を分けて見せたれば彼の背には縦横に長い病根があった。あの犬にも十年逢はぬ。…」
二軒目は屋号「小大盡」福島熊蔵。この家は文長のすぐ南に位置するためこの集落ナンバー2だったと推測できる。
三軒目は屋号「隠居」福島伝吉。この家は大盡の分家と考えられており熊蔵の西に位置する。
これら三軒は現在整備されている林道よりも北側に存在する。
四軒目は屋号「下平」福島喜一。この家は日天様の近くに位置するため集落の中心部にある。
五軒目は屋号「尾根」福島音衛門。この家は集落から西に外れたところに位置するためどこかの家の分家と推測できる。
六軒目は屋号「クネウチ」福島利八。位置は集落から外れた位置ではないものの最奥にある。小大盡の分家。
七軒目は屋号「カンクボ」加藤源太郎。この家はどの他の家よりも大きく外れに位置している。また苗字で分かる通り他6軒とは出生が異なり、天目指から炭焼きの適した場所を求めに来た加藤仁右衛門に由来している。
集落に向かう
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某日朝私は中央線の無料開放されていたグリーン車を乗り、青梅駅を乗り継いで鳩ノ巣駅へと到着した。東京から二時間ほどで来れるこの駅は無人駅で券売機すら撤去されていた。駅舎は最近できたらしく駅前はさびれていたが居心地良い空間だった。ここから本仁田山の登山口にまずは向かう。線路を超えて北へ進むと急な坂道を登ることになるが、むしろそれが目印となるため迷うことはないだろう。公園で休憩し、貯水池を見ながら登っていると山道が突然現れる。
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道はよく舗装されて歩きやすく、ある程度登山に慣れている人であれば楽である。本仁田山方面に数十分ほど歩き続けると大根山の神に到着する。ここにはベンチがあるため休むことができる。この場所は電波は弱いもののメッセージ送信程度なら可能であった。ここから山の神を右に進むことになるが舗装されている林道となっている。一応登山道を使わず林道を使用するルートもあったが、遠回りでかつ村に住んでいた人々が使うはずもない方法であったため除外した。林道を下っていくことになり、これが山の中に存在する集落という雰囲気を感じさせてくれる。山の神からは随分と近くに峰集落はあり、林道から左右に分布している。左側の斜面を登る方面には手前に福島熊蔵、その奥には一番大きい福島文長、はずれには福島伝吉の家跡がある。まずはそちらの方面を散策することにした。
福島文長の豪邸跡
斜面には道と呼べるものがあまり存在しないので足元には注意してもらいたい。所々に割れた茶碗やビール瓶が散乱している。伝吉宅はすぐに石垣があるため最もわかりやすい。その上を登っていくと板碑がある。これに書いていることはわからない。また登っていくと右側に開けている土地が見受けられる。この敷地の広さから福島文長邸跡とわかる。更に右奥に続いており、よく整備されている墓やその上にある木が伐り取られた空間がわかる。ここに柳田國男が泊まった事がある。井戸や貯水槽、柱石や壁一面に広がる石垣が確認できる。貯水槽には氷が張っていて結構寒い。
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後狩詞記と照らし合わせる
まず羽田の沖の帆が見えるという記述があるがこれは事実だったと言える。理由は集落と羽田までを線で結んでみると入川や多摩川が作り出す渓谷の地形で辺りが見渡せるだろう。しかし現地では見渡すもおろか、木があまりに生い茂っていたため不可能であった。これは戦後復興の中で植林運動が生まれ、多摩地方に木々が植えられたためとわかる。登山中に散見された、木を植えていることを告知する看板から現在もそういった活動は行われているらしい。現在の日本に多くある田舎部の廃家や廃集落ではこのように木々が生い茂り、葉が日を遮ってしまいどこか陰鬱で心霊味を増してしまっている。本来の姿が見てみたかったものである。また本仁田山の山頂だったら羽田まで見渡せるのではないかと疑問が残った。
朝日が下からさすという表現はまさに昔の峰の情景を表す一言である。周囲よりも高い位置に孤立し集落があったと、また、視界を遮るものが本当に少なかったからこういった現象が起きたのだと推察できる。
小丹波川の源頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。と言う表現があるがこれは誤りではないかと考える。理由は集落の側は入川が流れておりまた、集落の近くには布滝が位置していて、これがその二丈の滝に相当するのではないか。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。と表現が続くが大きな穴があるのは布滝ではなく少し上流にある速滝ではないかとも思われる。しかしこの滝はとても二丈とは形容し難く、また集落から見ることが少し困難かと思われるため、これは柳田國男の誤述である。多摩地方の地形図はあまり残されていないので表記がズレてしまうのも仕方ないとは感じた。
林道の右側方面を下っていく
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先に断っておくと福島熊蔵の家は訪問し忘れてしまった。石垣は林道からでも確認したもののこれには後悔が残る、、、。
さて林道まで降りてきて今度は日天様がある方面に向かう。林道をさらに少し下ると右手に小屋が見えてくる(林道の途中に重機があった。まだまだ工事中みたい。ここを抜ける頃の左手がおそらく熊蔵宅)。これが日天様が祀られる日天神社である。背後には銀杏の大木があり雰囲気がとても良い。近くに石垣が見えたら福島喜一の住宅跡だ。なぞの機械?が落ちていた。
話を戻して日天神社の扉を開けると賽銭箱と訪問ノートが置かれていた。訪問ノートは何冊かに分かれていて昔は廃墟マニアに人気の場所だったことを象徴するように最近の記述は少なく、たいていは10年前くらいに書かれていた。また日天神社の近くに崖のような場所の手前には住居跡がある。これは峰七軒に含まれない、つまり明治時代にはもう住んでいる人がいない跡地だった。
残念ながら体力の限界で捜索は切り上げられた。峰七軒のうちまわれたのは福島文長、福島伝吉、福島喜一邸のみだった。
福島利八邸跡は更に林道を奥へと進まねばならず、また加藤源太郎邸は南に進んでいかなければならずあまりに林道から遠ざかってしまうため、福島音衛門邸は山の神から林道を通って一番最初にあり、左側に見えるらしいが、これがどうにもわからなかった。
まとめ
この集落はもうすでに廃村になってから何十年も経とうとしている。福島文長一家は1933年に下山したため、大体はほぼ100年間も人が住んでいない。あまりに長い時間が経ってしまいこの集落の情報も不足しているため調査は曖昧な結果となってしまったが、それでも残っている板碑や墓、石垣はその時代を写し続けるとわかった。天守閣が残らなかった日本に多くある城の石垣に対しての認識が変化し、なんとなく思っていた「現存12天守以外は行く意味ない」という考えが変わって、耐久力があって生き証人となりやすい石垣に興味が出てきた。再度調査に訪れるときは行けなかった峰七軒の残りの四軒に訪れたい。あと峰を知っている方は情報をください。