わたしとぶんじ寮 2024
2020.11月、ぶんじ寮プロジェクトは始まりました。2024年11月23日…そこから4年の月日が経ちました。これまで約60名の方が寮生として住まいました。1年、2年、3年目と過去の記録はあまりありません。きっとみなさまの記憶の中にぶんじ寮があることかと思います。
4周年にして「ちょっと記録に残したいよね」という気持ちが本格始動!というところでしょうか。2024年11月23日時点で住んでいる寮生たちに「わたしとぶんじ寮」というタイトルで文章を書いてもらうことにしました。
ぶんじ寮2024 イヤーブックだと思ってお楽しみください。
たわいもない話ときれいすぎる空_ほっちゃん
2024年11月22日金曜日。最高気温は19℃だった。
11月下旬にしてはあたたかく、清々しい気候。雲ひとつない快晴。
とても過ごしやすい、むしろ少し暑く感じる1日だった。
1枚の絵画のように澄み切った真っ青な空を見上げて、深く息を吸い込む。そして若干の眠気とともに家を出た。
きれいな空を見るととても気持ちが良い。すっきりとした空に心地よく抜けていく風。いつもならイヤホンをして歩く道でも、自然の音を聞きながら歩く。でもきれいすぎる空を見るとソワソワする。これはあまり共感されないのだが、僕はきれいすぎる空を見ると少し落ち着かない。じっとしていられず、小刻みに体を動かし、キョロキョロと周りを見ながら歩く。別にきれいすぎる空に対してトラウマも特別な思い入れもないのだが、こんなにもきれいすぎる空があっていいのだろうか。そう思ってしまい、なんだか心がざわつく。
11月23日土曜日。最高気温は16℃の予報。
この日、ぶんじ寮は4周年を迎える。発足当時、僕は縁あってぶんじ寮のことを紹介していただき、初代入居者にエントリーをして、抽選の末に入居が決まった。まだ大学2年生が終わったばかりだった僕は最年少で、少しばかり年上の学生やずっと年上の大人たちとともに暮らしをスタートさせた。
元々知り合いでもなんでもない、「はじめまして」と「今日から一緒に暮らします」がセットのあいさつなんて後にも先にもあるだろうか。
「わたしとぶんじ寮2024」というテーマなので、2024年以前のことは控えめに、これより先はあと1ヶ月ほどで終わりを迎える2024年のことを。
今年はぶんじ寮での暮らしがこれまでの半分になった。2022年12月に立ち上げた地元新潟での事業も継続しており、東京と新潟の2拠点生活。毎月上旬は新潟、下旬は東京というライフスタイルに落ち着いた。ちょうど良い頻度で都会と地方を行き来できるこのスタイルは個人的な相性もばっちりで、心地よく住む場所を変えながら生活を送っている。が、元々毎日帰っていたぶんじ寮での暮らし、住民とのコミュニケーション、くだらない遊びは半分になった。当然のことながら他の住民は普通に暮らしているので、日々いろいろなことが起こっている。僕はそれをコミュニケーションツールを通して知るようになった。「あ、楽しそうなことをしている!」「いいなー、一緒に行きたかったなー」「おー、ケンカしてる」といったように。
自分も住民の1人のはずなのに、あまり話についていけない。
そんなもどかしさを感じることが増えた。
そういうときに、まぁいいか。と諦めてしまえば気持ちは離れ、そのもどかしさは募るばかりで、ぶんじ寮での暮らしがどんどんつまらないものになっていく。そんなことはわかっていた。
なにかしたい。けど物理的にぶんじ寮にいない。東京にいる期間でも仕事で朝から夜まで外に出ている。週末もいろんな予定で寮にいない日が多い。
さぁどうしようか。
たどり着いたのはシンプルな答えで、ちょっとした時間を共に過ごす。
あえて自分からそういう時間をつくることだった。
例えば、僕は夜どんなに遅く帰宅しても必ず食堂に寄ってから部屋に戻る。明かりがついていたら誰かがいる証だし、コミュニケーションを取るチャンス。一緒にご飯を食べられるかもしれないし、今日あったことを話せるかもしれない。明かりがついていなくても寄るようにしている。机の上に残されたもの、イスの散らばり具合、キッチンの様子から何となく他の住民の暮らしを感じることができる。それだけでいい。何人かで話していたのかなとか、みんなで鍋食べたのかなとか、ボードゲームやってたのかなとか。そういうこと少し自分の頭で想像するだけで、この場所で暮らしている、暮らしを共にしているという実感を取り戻すことができる。
他には米の精米。いま寮で食べているお米は僕が玄米の状態で新潟から運んできている。別に新潟で精米してくれば良いだけの話なのだけれど、それではもったいない。車で5分の距離にあるコイン精米所に住民と一緒に行き、精米をして帰ってくる。そのたった15分とか20分ほどの時間が大事で、車の中でいろいろな話ができる。ときにはコイン精米所の隣にあるすき家で牛丼を食べることも。ちなみにだいたい深夜0時。そんな夜があってもいい。
そして、毎月末の納税も恒例になっている。僕はどれくらい払っているのか手触り感が欲しかったため、引き落としではなく払込用紙で支払うようにしている。もう数年は続けるつもり。その納税を同じく払込用紙でやっている住民と一緒に行くのだ。そして共に毎月の痛い出費を憂う。そんな悲しい夜もある。
僕が週1でやっているこくベジ(国分寺で栽培された野菜の総称)の配達の仕事もコミュニケーションチャンス。午前に農家さんを回って野菜を回収し、午後から市内の飲食店を中心に配達していく仕事だ。基本1人で回るため、住民を助手席に乗せることもある。どうでもいい話をしながら国分寺の街中をぐるぐる回る。とくに新しい住民には国分寺の案内にもなる絶好の機会。
このnoteを読んで興味が湧いた方、遠慮なくお声がけください。
こんな感じで、ちょっとした時間をつくるチャンスを探すようになったのが2024年の変化。
車を持っているので、気軽に声をかけるようにしていて、
「車でスーパー行くけど、誰か一緒に行く?」「多摩川の河川敷に遊びに行くけど誰かひま?」「今度さつまいも掘りあるけど、、!」
って感じでよく声をかける。
のってきてくれるみんな、ありがとう。
20人ほどで住んでいるので、もちろん良いことも悪いことも起きる。ときには真面目に意見を伝え合うことも大切だし、向き合いたくないことに向き合わなきゃいけないときもある。
それはそうなんだけれど、その前に、ちょっとした時間を共に過ごしたい。どうでもいいコミュニケーションを重ねたい。
そしてきれいすぎる空を一緒に見上げて、
僕はどんな気持ちになるのか確かめてみたい。
そうちゃん
5号室に住む人。2021年の夏からいます。早いもので3年をすぎ4年目です。ぶんじ寮の中も外のまちも好き。
2024年の僕とぶんじ寮
年明けから能登半島の仮設住宅の仕事でぶんじ寮を離れていました。だいたい8ヶ月くらい。でもその間、仲間が入ったり、スロープができたり、揉め事が起こったり。
僕の気持ちはぶんじ寮にいたので、帰ってきたら、みんなとすんなりコミュニケーションとれた。なんか2023年の僕ならぶんじ寮の外のまちについて書いていたと思う。でもなんだか、今年は、ぶんじ寮の中が好き。より好き
ハタコ
みなさん、こんにちわわ。管理人室に住んでいますハタコです。
自己紹介
山好き、性格適当、自由奔放。シェアハウス経験多数。2020年ハタ坊と出会い、トントン拍子で結婚。ハタ坊からいい家みつけてきたよーと見つけたきたのがぶんじ寮。手が入っていないときの寮はまぁやばそうなニオイしかしない。おもしろそうだしまぁいっかと管理人室に住むことを承諾。2020年12月にお引っ越し。猫が欲しい!と2021年1月21日ぶんじくんをお出迎え。2022年4月24日あおね誕生、2024年11月19日35才となり結婚生活、ぶんじ寮歴4年を迎えます。
そんな私のぶんじ寮での楽しみはというと、これは可愛い可愛い猫のぶんじくんのブラッシングをするときお外の椅子に座ってやるんですよ、縁側もどきの。そこに座りながら猫ちゃんと一緒にいると、ふらーっと寮生が現れて最近どう?とかどうでもいいたわいもない話とかハタコの愚痴をきいてくれたりするわけです。コーヒーいれてくれたり、ビール飲んだり、たべたりなんだり。そんな穏やかなたわいもない時間が好き。
【2024年のハタコさん】
ぶんじ寮関係なしに、痩せることを目標にしていたわけです笑 結論、全然痩せませんでした🐣来年こそ一緒に痩せましょう。
【日々の生活】
ドタバタと気づいたら1日が終わっている。あおねの生活リズムが定まってきてその通りにこなしてしまうことが多くなっている。基本あおね中心の生活。6時起床、21時就寝と規則正しい日々。寮生にも子育てお手伝いいただき、夫婦共々大助かり🙇♂️
【変化】
今年になって保育園のお友達をぶんじ寮に招きプールしたり、BBQしたり、あおねのお友達がぶんじ寮に遊びにきてくれる体験ができた。
気づけばぶんじ寮は私にとってあー落ち着くなぁ安心するなぁというかもう、普通に自分家なのです。誰がいて当たり前の生活。こんなに部屋の中見られている家他にはないと思う笑。そして、あおねにとってももそうなってるのかなぁって感じるようになった1年だったなぁと思う。2歳をすぎてよくしゃべるようになったあおねは、「ここはあおねのおうち」「みんないないねぇ」「みんなごはんたべてるぅ?」「まっちゃんかえってきたかなぁ?」などなどぶんじ寮でみんなと暮らしていることが日常になっている。今年も楽しい1年だったなぁ。こんな日々がずっと続くといいなぁと思えることが幸せだね。
まっちゃん
自己紹介
4号室まっちゃん
神社仏閣、大きな木、飲み屋、ぶんたんが大好きです。おすすめの場所があったら教えてください。「いい音、いい人、いいお酒」3拍子揃ったら最高ですが、どれかひとつでも出会える空間は大好きです。最近は月の半分以上は浜松にあるNPO法人レッツクリエイティブサーポートセンターでヘルパーとして働いている。
ぶんじ寮に住んで4年目に入った。今年は大きな変化があった。ぶんじ寮でだれよりもゆっくり過ごしていたであろう自分が仕事でぶんじ寮にあまりいなくなってしまったのだ。
ただ、ぶんじ寮に戻ってきたタイミングですることがある。食器の整理やお箸、スプーンなどの整理である。最近はあまりできることが少なくなってきているが。共同生活をしてきて大切だと思うことは、共有スペースや共有物、お米や冷蔵庫や調味料などみんなで使うモノ、食堂やお風呂などみんなで使うスペースに関わり続けること、気にしていることである。皆も使うが自分も使う。自分のものでもあるけど、みんなのものでもあるし、誰のものでもない。といったあいまいなものや空間へのスタンスや気遣いである。例えば調味料の購入、自分のものでなくても食器を洗ったり、拭いたり。気が向いたときにはトイレや洗面所、リビングなど共有スペースを掃除したり、食堂のごみをまとめてゴミ出し日に捨てる。ゲストルームの掃除などみんなそれぞれに関わっている。どれだけ共有というあいまいなものに程よく関わりつづけるか。関わりすぎても疲れてしまう。これが暮らしの余白を広げることだと思っている。そこに関わりつづけることがとっても面倒で大変であるが、面白いことである。暮らしの中の不満もだいたいそこに表れる。
食堂やリビングなどでよく起こる問題をあげてみよう。
炊飯器
過去には炊飯器をきれいにしようとする思いが強く、電気炊飯器を丸洗いして使えなくしてまった住人もいたが、最近よく起こる問題は、炊飯器にご飯を少し残して長時間保温しカピカピにする問題だ。少し残すぐらいなら食べればいいし、食べないのであれば冷凍して、炊飯器を洗えばいいと思う。以前より冷凍してだれでもすぐ食べれるようにご飯をストックする人が少なくなっていると思う。
鍋のとって
ぶんじ寮のキッチンのコンロが業務用で火力がとっても強い。火も内側と外側と二つつけることができる。外側を使っていると、とっての部分にあたって溶けてしまうのだ。内側でも家庭用コンロの強火とは全く違うので、普通に強火で使うとすぐにごけてしまう。
調味料
ぶんじ寮では調味料を共益費から買っている。なくなったらタイミングがあった人が買ってきてくれる。以前、どこまで共有で買うかといった議論もあった。マヨネーズは共有だけど、なぜケチャップは違うのか、ごま油は、オリーブオイルは?めんつゆは?
サランラップやアルミ箔
使おうと思ったら芯だけ残っていて中身がないのだ。しばし起こる罠である。よくひっかかってしまう。
銀棚や冷蔵庫
食材などを部屋ごとに保管する場所がリビングにある。今年の大きな変化ははじめに訪れた。もともと銀棚の中は仕切りがなかったが白いケースによって部屋ごとに区画化されたのだ。冷蔵庫は4年間毎年いつも話に上がるほどよく話し合う問題の1つだ。話すと少し長くなりそうなのでまたにしようと思う。
共有スペースや共有物、共有行事への関りはぶんじ寮に限ったことではないと思う。公園や公民館などの公共スペース、地域のお祭りなどあいまいな空間ものへのスタンスや関わり方がこれから大切になってくる気がする。
昨今はルールや決まりなどグレーゾーンを白であるとはっきり掲げて、白くさせようとしてくる雰囲気がある。何事も分かりやすく、効率的に、無駄なく、ハッキリさせる。その瞬間は過ごしやすいかもしれないが、長期的に見たら過ごしづらくさせる場合も多くある。ルールなどではっきりさせることが大切な時もあるが、決めないで、あいまいなものをあいまなまましばらく持っておくことも大切なことだと思う。
まさまさ
こんばんは、まさまさです。2024年11月21日にこの文章を書いています。
#暮らしの観察日記として、時々ツイートすることがあるので、それをもって2024年を振り返っていきます。
「まちの寮」という言葉を聴いた時、まちにいる人だれもが「いることができるか」ということになるんだろう、と自分なりに思っている。その人が「居られるようになるか…」ということを、空間を共につくる者として大事にしたいと思う。 ただ、これが予想通りにめちゃくちゃ難しい。だれかの「できない」をゆるしていくことは、自分自身をゆるしていくことなんだと感じる。恕す(ゆるす)…相手を思いやる心…相手を思いやる心をもつように、最終的には、完璧ではない自分を、思いやって恕していくのだ。いろんないらだちもむかつきも自らの人生の肥やしに…。
〇〇の「ために」なんて捨ててしまえばいいさ。前提を「好きなことをする仲間として出会う」にしてしまえば、一人ひとりから芽吹くその新芽が、まちに広がっていく木みたいだ…と捉えることもできよう。そんなつもりがなくたって好きなことをする仲間として出会いたい。一人ひとりに興味関心好奇心を…そんな気持ちもあって、2024年の1月に書いた一文字は「奇」です。
ちなみに「奇」の意味を調べると①めずらしい。普通でない。 ②不思議だ。怪しい ③すぐれている ④思いがけない などがある。不思議や思いがけないことをを面白がる。 そして、自分はめずらしく、すぐれている…そんなことを目指せるととっても素敵なだな…と思ったことでした。
暮らしていると、事件は起きる。自分の常識の範疇を超えた出来事が予想以上に起きるのだ…怒らずに面白がれ!そう暮らしてきた。だから、とっても面白い楽しい思い出になっている事件もある。ただ、この日は違った。友人から譲り受けた車…シェアカーとして、みんな使っていいよ!という状態に、保険を厚めにした。はじめて使った人・その次につかった人、それぞれ車をこすって帰ってきた。ぶんじ寮にある「住民ミーティング」という月2回の話し合いの機会は、愛車をこすられても面白がれるようになっていく。悲しいことが起きても、話し合うことで関係性が育まれる場所。それがぶんじ寮です。
簡単に3つのツイートを元に振り返りました。最後まで読んでくれてありがとう。こいつおもろそうやな…と思ったらフォローでもしてください。
・Twitter(新X):https://twitter.com/masamasa_39
そういえば、ぶんじ寮のラジオもずっとちゃんと取ってますので、それもよければ聞いて下さい。
たいが
ハローハロー。9号室に住むたいがです。ぶんじ寮が4周年を迎えるにあたってこの『わたしとぶんじ寮』に便乗して一節をお借りするわけですが、普段から記録に残すという作業をしない性分なので、中々にハードルが高い…。なのでここでは取り敢えず、この1年の暮らしにフォーカスして、自分視点での振り返りを綴ってみようと思います。
プロフィール
名前:たいが
国分寺歴:2年半
左利き、AB型、ENTP。2022年5月入居。退居する理由もなく「なんとなく」暮らし3年目突入。出たいわけでは全くないが、出る理由を探している。
わたしのぶんじ寮 2024
1年を振り返るとき、まず浮かぶのが「今年一年、早かったなあ」感であります。そして今年もまた例外ではありません。ここぶんじ寮での暮らしも早いもので3年目になりました。人間何事においても、良くも悪くも「慣れ」というものがあると思っておりますが、きっとその慣れというものもまた、時の流れを早く感じさせているのだろうと思います。
2024年。はじまりは今年も、屋上から見る日の出。寮で過ごすお正月も実に2回目。なにがと問われると難しいが、今年も「なんとなく」心入れ替えて新年を迎えました。 年度が替わるタイミングで仕事の処遇が少し変わり、これまでのぐうたらな生活から一転、予想以上に忙しい生活が始まりました。まさかこの自分が(自分で言うのもなんだが)、仕事メインな生活に身を置くことになるとは!これもまた、一年があっという間に感じる所以なのかも(?)
仕事の話はさておき、今年は自分的一大コミュニティが始動した記念すべき年でもあります。2023年より精力的に活動を続けてきた「東元町バスケ部」が、名を「トーキョーウルフ」と改め、4月に正式にクラブとして発足しました㊗!まともな練習場所もなく、近くの市民体育館の一般開放日に交代で順番待ちをしていたあの弱小集団が、今や地元国分寺に本拠地を構え、B1(日本のプロバスケットボール・リーグ)を目指すチームまでに成長するとは…。毎週日曜日の定期練習や、近隣中学校バスケ部との対外試合を重ね、着実にチームとして成長したと思います。メンバーもいまや30人弱(随時募集中)と大きくなり、11月には埼玉へ強化合宿を敢行。初期メンバーとして、今後の躍動が楽しみで仕方がありません。
出会いとは、別れのはじまりーーそして自分の暮らし
ここでの暮らしには、たくさんの出会いがあります。でもそれは裏返すとたくさんの別れがあるということでもあります。そして今年もまた、共に暮らした多くの仲間(「一緒に住んでた人」をうまく言い表す単語が分からないw)に別れを告げました。そしてそして何より、いつの間にか自分は古株の仲間入り。しかも日々の何気ない話題の中で「あの頃は~」だったり「いやいや昔は○○」とか”昔話”を多用してしまう所謂《老害》のジャンルなのでは、と気が引けることも何度かあった1年でもありました。
次なる冒険に出かけていくひと、新たな生活を始めるべく退居していくひと…。そんな様々な別れを見送る中で、「なんとなく」入居し、「出る理由」がないままここに留まっているコレ(自分)ってのは、もしかして”滞り”というヤツなのでは、と妙に嫌気がさす瞬間もありました。
ここでの暮らしはハプニングばかり。嬉しいこと、楽しいこともたくさんある反面、嫌な気持ちになることも、イライラするだってたくさんある。それでもそんな暮らしから離れる気にならないのは、やっぱり居心地が良いからなのだとも思います。そしてその「居心地の良さ」こそが、ぼくがここを「出る理由」がない理由の一つだし、「なんとなく」過ごすことのできる唯一の安心なのではないだろうか。
3年目のぶんじ寮の暮らし、多くの出会いと別れを経たここでの暮らしが、ぼく自身がここで暮らし続ける理由を縁取ってくれたようにも感じました。
えーちゃん
どうも11号室のえーちゃんです。ぶんじ寮に来て1年9か月。新卒の会社を10ヵ月で早々にリタイアしてやってきたこの場所で、様々な人、文化、環境に触れ、少しずつではありますが「安心」を手に入れていきました。
安心を手に入れると、ふつふつと自分がやりたいことが芽生えていき、こんなことを思うようになります。
『まちの便利屋になってみたい』
じゃあまずは自分が好きなカメラ(写真撮影)をきっかけに、まちにでてみよう。そんなことを言い出したのがちょうど1年前くらい。撮影した写真をお見せしながら、今年1年どんな写真を撮ってきたか、どんなお手伝いをしてきたか、振り返っていきます。
便利file1 子守り
ぶんじ寮にはあおね君という2歳の男の子が住んでいます。
「子育て体験をする」というのがぶんじ寮に来た理由の1つでもあったのですが、今では保育園のお迎え→ごはん→お風呂→寝かしつけまでできるようになりました。あおねはどんな大人になっていくんだろう…
便利file2 夢見る薬膳研究員(助手)
ぶんじ寮のつながりで仲良くなったくにえさん。夢みる薬膳研究室として「誰でも簡単に取り入れることができる薬膳」をキーワードに、料理教室やイベント販売をしています。この1年は、マルシェ出店のサポートや写真撮影などでお手伝いさせていただきました。来年2025年には研究室レストランを開店するので、今後も1番弟子としてお手伝いさせていただきます。
Instagram yumemiruyakuzen
便利file3 まちのカメラマン
実はまだ自分のカメラをもっていません。それでも暮らしの関係性の中で住人や友人からカメラを借り、その関係性の中で依頼を受け写真を撮影させていただいています。少しずつカメラの設定や編集方法を知り、より自分が好きな写真が撮れている感覚があります。これからもカメラをきっかけにまちへとびだしていこう。
プロフィール
名前 EIKICHI SAKURABAYASHI
1999年生まれ山梨県出身。興味のある分野は、子ども・暮らし・音楽。
新卒の会社を10ヵ月で辞め、逃げるようにぶんじ寮へ。
撮影のご依頼お待ちしております。
ご連絡は下記SNSアカウントまで。
Instagram kamekichi_kokubunnji
Facebook Eikichi Sakura
わか
こんばんは。15号室のわかです。今は21日21時53分です。23日の朝に公開。焦りながら筆を走らせています。2023年11月末に入居をしたので、もうすぐ1年が経ちます。ですが、初めてぶんじ寮に来たのは2022年の7月なので、それから2年以上経ちました。
序論
初めて来た日は、焚き火カフェがきっかけで、その日は確か、ゲストルームに泊まった。そういえばノートに何か書いた気がする。 ”暑さも忘れ、綺麗な月とおいしいごはんをゆったりと味わった。初めてきたとは思えない居心地の良さにびっくりしました。たくさんおしゃべりをして最高の夜でした!また来ます(^^)” ぶんじ寮がどんな場所かも知らずに来て、はじめて会った人たちと火を囲み、焼きおにぎりを食べた。お散歩して、ビールを飲んで、夜遅くまでおしゃべりをして。焚き火の力なのか、その場の空気なのか、はたまたそこにいた人たちなのか、不思議なぐらい居心地の良さを感じた夜だった。また来ます、の言葉通り、焚き火カフェに何度も足を運び、気づけば住人になり、今に至る。
本論
最初に感じた居心地の良さは何だろうか、何に惹かれたのか、、一番しっくりできるのは、「信頼」。我ながら謎な結論、、信じられるし頼れる。きっかけでもある焚き火カフェの店主は、焚き火であり、おもてなしは焚き火に任せます。進行役がいるわけでもないし、やることも決まっていない。それぞれが思うままにその場にいる。いていい安心感。何をしたらいいか分からない、やっていいのか分からない。その不安よりも、やっていいんだ~思うままに過ごしたらいいんだ~。なんかあったら伝えてくれるんだろうな、という信頼。今までにない感覚だった。
集団でいるときは、気をつかい、顔色をうかがい、そこにいる人の居心地の良さを気にし続けてきた。それは、何を考えているか、人の気持ちを想像して、悪い方向にいかないように(何が悪いかもわからない)勝手に行動していたんだな~と気づいた。そして、それぞれが思うままに過ごしたらよいし、言葉で伝え合ったらいいということに気づいた。伝えてくれる、伝えていいという信頼が、心地よいと感じたのかもしれない。
結論
暮らしていると色んな自分が見えてくる。できること、得意なこと、苦手なこと、楽しいこと、悲しいこと、いやなこと、嬉しかったこと、涙も笑顔も。20人で住んでいると、20人のもちよりがある。まちにひらけば、何倍にも広がっていく。信じて頼って、自分を、好きなようにもちよったらいいね。この暮らしの先に何があるのかはわからないけれど、私はここで暮らしていたいと思う。
さえこ
こんばんは。16号室さえこです。ぶんじ寮に住んで1年と8ヶ月が経ちました。今の女子棟では2番目に長く住んでいることになるなんて、びっくり。
これまでの暮らしの中には、ワクワクすることもあれば、しんどいこともありました。一つ一つ忘れたくない、気付きと学びの連続。備忘録として書いておきたいと思います。ちなみにこの記事は、昨日久しぶりに寮生とケンカをし、今日はなんとなく帰りたくなくて、家出するように逃げてきたサイゼで赤ワイン飲みながら書き始めたので乱文お許しを。ちなみに明日も仕事です。
自己紹介
同世代の結婚・出産ラッシュの渦中にいる小学校教諭4年目。感情派。性善説を信じている。人の育ってきた背景を考えるのが好き。論理立てて話すのが苦手。外面いい子ちゃんタイプ(中身はぐちゃぐちゃ)。お酒とお料理が好きです。
人の育ってきた背景を考えてほしいので、自分語りします。(長いため、とばしてOK) 小は公立、中高は地方の私立難関(笑)校。周りは東大医学部志望が当たり前の世界。成績ビリから数えて7番目、通称「神7(セブン)」入りの私は自己肯定感下がりまくり。それでも、惜しみなく教育費をかけてもらった私は、本当に金のかかった人間、簡単には死ねません。ありがとう、両親。人のことを点数で判断してくる偏差値社会に疲れ果て、辿り着いたTOKYO。弱きものも受け入れてくれる刺激的な街。地元より好きになった。
しかし、小6から教員を目指していたにもかかわらず、悲しいかな、教員養成大学で「もしかして、今の学校教育ってヤバい?」と感じてしまう。正直企業就活が面倒くさかった(未知で怖かった)のと、ヤバいかもしれない学校教育を批判するには内部に潜入せねばならない、と半ばスパイの気持ちで学校教育の世界へ。
さて前置きが長くなりましたが、そんな「私」と、「ぶんじ寮」との関わりを考える上で、どうして今日までぶんじ寮に住み続けているのか、振り返ってみる。
ぶんじ寮って、すごいなと思う
ほとんどの寮生の意識は、ぶんじ寮の活動理念に基づいて、自分らの住む「まち」に向いている。すごいことだと思う。余談ですが、今日小学2年生と「まちたんけん」に行き、学区域の施設やお店の人にインタビューをしたのですが、8歳さんは、地域差はあれど、あまり「まち」への意識はまだ少なそうでした。 学生時代、東日本大震災の復興支援ボランティアで、被災地域の方とお話しさせていただいたことがある。その時に「この町みんなでがんばるんだよ。」という意識を強く感じた。有事の際、まちの繋がりがなければ人は孤独に死ぬ。隣に住んでいる人は元気かな、あの家の人、ご飯食べられているかな。自分が孤独な時、そうやって思い遣ってもらえたら、絶対嬉しいじゃん、強いなと思った。わたしはそんな思い遣りをし、される世界に生きたい。
話は戻りますが、寮生たち、国分寺が好きなので、おすすめの場所やモノをいろいろ知ってる。その情報をシェアしあってる。あのお店美味しかったよ、こんな場所ができたらしいよ、このお野菜美味しかったよ、シェア!だから、国分寺に住むのが楽しくなります。寮生はみんな、国分寺の地域おこし協力(ナントカ)の人材だと思ってる。わたしにもおすすめのお店ができました。「じょうれんさん」になれた、居酒屋かっぱといいます。まちの人があったかいお店。そこでたくさん美味しいごはん、美味しいお酒、あったかい人の心付けをいただく。ぶんじ寮は、補聴器の会社リオンさんの元独身寮だったことはご存知の方も多いと思うけれど、居酒屋かっぱでは、そこに住んでいた方ともたまに出会えて毎度感激します。まだ国分寺にいらっしゃったのねって。まちの息が長い。そんな発見もあるのです。
わたしにとって、ぶんじ寮生とは
率直に言うならば、もちろん全員ではないけど(笑)コミュニケーションをとってきた大体の寮生が友達以上、恋人以上、家族以上という気がしている。「友達」「恋人」「家族」は各々解釈が違うと思うけど、肌感覚そんな感じ。今年は、そんなぶんじ寮生が、わたしにとっての大切な人たちに会ってくれる機会が特に多かった。祖母の家に、タケノコ掘りに泊まりにきてくれた。居酒屋かっぱでお手伝いしていたら、飲みにきてくれた。先輩たちと飲んでいるところに合流してくれて、語りを聞いてくれた。職場の同僚になってくれた。わぁ書ききれない。どれもすごくいい時間だった。トモダチでもなく、カレシカノジョツマオット、という間柄より心地よい、「寮生の〇〇」という関係は一人ひとり、わたしにとって大切な存在だということは書いておきたい。
なかよしごっこは、したくない。
「寮で共同生活しています。」と話すとポカンとされがち。「シェアハウスの住人が〜」と説明せざるをえない時は、いつも緊張する。ウェイウェイしていて(偏見)そういううちわのノリがめちゃくちゃいや(偏見)だからです。前述しましたが、最近、寮生とけっこうボリュームのある(大声を出して、心にストレスのかかる)喧嘩をした。話し合いもした。間に入ってくれた寮生がいた。ちなみにこれははじめてではなく、私は半年に一回くらい、寮で不満や怒りを寮生に向けて爆発させています。
さすがに職場でも家族にも、相手に怒りを思いきりぶつけることはしないから、キレ症ではないはず。なぜ寮では起こしてしまうのか考えた時に、職場では、関係をなるべく穏便にするオトナな対応が求められるからだなぁと考えた。寮ではオトナにならなくてもいい。仲良しでいるために、とか考えなくていいんだよ、と自分に言い聞かせて暮らしています。
職場では、仕事柄「住んでいるところが同じで学年が同じというだけで集められ、普段なかよしとかなかよしじゃないとか無関係に、かき集められた34人のクラスの子たち」が、「800人近い子が過ごす校舎」で「みんなが心身ともに安全な学校生活を送るため」に、クラスや学校にはいろんなルールや制約を敷いている・強いている。そこでは、すべき論ひいては管理主義の世界が広がっている。だってこの人数を教員だけで一人一人対応するのは難しいもん。ハイ、管理主義!平和主義!民主主義!
教員はもともと学校大好き人間が多いので、それはつまり先生から好かれるいい子ちゃんタイプで、すなわち学級委員ポジション。先日のケンカでは、わたしが「みんなのことを考えてよ!」と正義ぶる。寮生から「I」を主語に喋れよ、と言われ、たしかにそうだなと、ひとり反省したのでした。
自分が未成熟な部分に気付かせてくれる人が周りにいてくれる毎日に感謝です。これまで関わってくれた全てのみなさんにありがとう、これからもよろしくね。
あおか
こんにちは、21号室のあおかです。大学にのーんびり在学し続け、今年で大学6年生。この8月までは2年ほど休学してあっちやこっちをふらふら漂っていました。ぶんじ寮には今年(2024)の9月に入ったばかり。ばかり、と思ったけれどもう3ヶ月弱も経つのだな。まだまだぶんじ寮に入って日が浅いので、今回は私がぶんじ寮に辿り着くまで、どう人と暮らしてきたのかを中心にだらだらと書いてみようと思います(ちょっと企画の趣旨と違うかしら)。
ぶんじ寮の話が読みたい方は、最後の方だけでも覗いてみてください。
キッチンが私たちの中心だった、大学寮
と、いうことでいきなりぶんじ寮ではない場所の話になってしまうのだけれど、せっかくなので人と暮らし始めた時のことから振り返ってみる。
人と暮らすことに興味を持ったのは、大学入学後、学内の寮に住み始めたことがきっかけ。「敬語で話したらあかんで」とフラットに接してくれた先輩たち(なんだか関西の人が多かった)のおかげで、気づけばあっという間に馴染んでいた。(そしてそんな場をつくることがいかに難しいか、ということを自分が「先輩」の立場になってから思い知るのだが…) ふと寂しいときなどは共有部のキッチンに行くと誰かが灯りの中に居て、ぽつぽつと話し出すと気づいたら夜明け、なんてことも少なくなかった。そのまま自転車でモーニングを食べに行ったり。台風で外に出られない日はみんなが寮の中にいて嬉しかった。楽器を演奏して、歌って、料理をして、就活をして、掃除をして、勉強をして、眠っている人がいた。 自分の育った場所のこと、家族のこと、食べ物のこと、言葉のこと、恋愛のこと、いろんな話をした。今まで知らなかったミャンマーという国の友人はとびきり料理が上手で、レシピなんて見なくてもするするする、と手が動く。美味しそ〜なんて覗く私に、いつもたっぷりお裾分けをしてくれた。
友人ができると、その人にとって大事な場所、暮らし、人々、食べ物、宗教、そんなものが少しずつ身近になる。今思うと、私は人と暮らし、人と出会うことを通じて自分と他者を切り分ける境界線が少しずつ滲み、広がり続けてきたのだなと思う。他者を完全に理解する、なんて出来ないけれど、違いを、分からないを抱きしめることを少しずつ学び、それと同時に自分ごとの範囲も増えていった。
キッチンのないイギリスでの寮生活
大学からの交換留学プログラムで、まだコロナ禍の2021年秋から1年間、イングランド北部の小さな町、ダラムの大学に留学をした。
そこはイギリス伝統の「カレッジ制」というもののある学校で、ハリーポッターのグリフィンドールやスリザリンみたいに、特色のある寮がいくつかある。私は町の近く、大聖堂のすぐ隣の古い建物の寮に住んでいた。(中には城の中に住める寮もあった。)
寮ごとに図書館や食堂、バー、部活動などもある。イベントも色々あって、月に2回くらいはドレスアップして夜ご飯を食べたり、学期の終わりにはBallという豪華なナイトイベントやファッションショーなどもあった。と、まぁ一見とても楽しそうな憧れ海外の大学ライフ!に見えるのだが、実際はというと、とにかく友達ができない!とても苦労した。要因はきっと色々あった。地域性、コミュニケーションの仕方の違い、自分が無意識的に持っていたかもしれない偏見、関わり方や所属するコミュニティ…。しかし、「暮らし方」の部分に着目すると、とにかく寮の仕組みが私には合っていなかった。それは、自炊ではなく食堂で食べるというシステムだ。私の住む寮は、3食とも食堂でご飯が出ることになっており、キッチンにはほとんどの人(中国、香港、台湾からの留学生以外)はお湯を沸かしに利用するくらいだった。
部屋は1人部屋で、食堂以外では「自然と」人と出会ったりたむろする場所がほとんどない。食堂では一緒に食べる人たちのグループができていて、私はどこにも馴染めずにいた。食堂から部屋にご飯を持って帰って1人で食べることも多かった。
日本の大学寮ではキッチンという場所が、なんとなく空間や音、匂い、言葉を共有する「自然な」出会いの場となっていた。イギリスに来てその場所を失った私は、人とのコミュニケーションもコミュニティも失い、路頭に迷っていた。そして、自分が「一部である(belong)」と感じられるコミュニティを持てないことの不安を強く思い知った。「ただいま」と安心して帰ることのできる場所がないと、勇気と自信を持って外へ出ていくことも難しくなってしまうのだと思った。
「人と自然との関係を繋ぎ直す」暮らしを知りたくて休学
留学後、ヨーロッパや中東をふらふらとしてから日本へ帰ってきた私は、休学を始めた。「なぜ人によって'自分ごと'の範囲が異なるのだろう。」という問いを持つようになった私は、「それを広げるのって、他者を知ることから始まるのではないか」と考え、暮らしからそれに挑戦する「エコビレッジ」という共同体を訪ねてみることにした。エコビレッジというのは、主に自給自足的な生活を集団で行うコミュニティのことだ。
経済発展とともに個人主義の進んだ日本において、「コモン」という言葉が注目を集めるようになったように、モノ、場、力、知恵、そんないろいろを共有していくことが必要だと思った。そしてそれに挑戦する人たちに出会った。何を共有し、何を所有するのか。それはぶんじ寮でもまた日々試行錯誤されている問いだと思う。 エコビレッジや農園、パーマカルチャーの拠点、インドの農村など、様々な場での共有と所有のあり方に触れてきた今、ぶんじ寮という場所でふたたび自分の生活を始めることになった。
「ルールがないことがルール」ぶんじ寮での戸惑いと感動
大学へ戻ることを機に、再び人と暮らす場を探していた時、以前出会ったぶんじ寮元住人の方から寮の話をちらっと聞いたことを思い出した。影山さんの「ゆっくり、いそげ」は数年前に拝読しており、Motion Galleryの内容にも共感して、ぶんじ寮のSNSなどを覗いてみたが、様子が分かるような分からないような笑 オープンに住人を募集はしていなかったが、突撃で連絡をしたところ、住人のまさまさがビデオ電話で寮の案内をしてくれたり、寮の住人とちょこっと話をできたりした。(この時まだインドにいて見学には来れなかった) 「まちに開く」という点にもすごく惹かれたが、特に面白いと思ったのは
というところだった。いろんな形の共同生活を体験し、色んな共有と所有のあり方に触れた今、改めてその距離感や付き合い方を「選べる」場に身を置いてみることに興味があった。 実際、暮らし始めてみると本当にそれぞれが自分にとっての心地いい距離感を模索し続けているし、それを選ぶことが尊重されている場なのだろうと感じる。それは安心感にも繋がる一方、共有の部分が少なくなりすぎると分断にも繋がりかねない。
住民ミーティングや日々のやりとりの中ですれ違い、擦り合わせ。そうかそうかと頷いかと思えば、でもやっぱり分からないね、と唸りながら問いはその場をふわふわと漂っている。そういうことが全部許されている(誰が何を許す、ということも決まっていないが)場であることの豊かさに、私は戸惑いつつも感動した。入居者マニュアルなんてものはなく、「管理しない」管理人がいて、「別にその仕事をするわけではない」大臣がいて、もちろん人が暮らしてきた歳月の分だけ文化とやり方があるけれど、そこに誰でも問いを向けることができる場所。昨日はこう決まっていたことが今日は違う。それはキッチンやリビングのモノの配置から寮の場の使い方の話まで。
流動的であることや、答えをすぐに出さずにもやもや相反するものをそのまま抱え込むネガティブケイパビリティをみんながなんとなく持ってやっている。その包容力に私は、ほぅ、と感動してしまう瞬間がある。日々住人や町の人たち同士でカルチャーショックを受け合いながら、なんとなく生活が進んでいくことのすごさ。そしてそういう場が現代社会にあることの豊かさ。そんなことをひしひしと感じながら、今日もぶんじ寮での一日を「なんとなく」生きています。
あおい
こんにちわ。ぶんじ寮に住んで1年ちょっとのあおいです。会社と家の往復を長らくして、自分の暮らし方について見直す為に住みはじめました。日々新しい出会いと気づきがある楽しい暮らし。日々強制的に人と関わりあう刺激の多い暮らし。
この一年ちょっとの時間を、何の文脈で切り取ればいいか考えて住民のみんなと暮らさなかったら食べられなかった、食事の写真を貼ります。その人のゆかりや背景が見えるようなごはんたち。人が作ってくれたごはん、人と食べるごはんはおいしい。
引き続き、おいしいものを食べたり作ったりして、人と関わっていけたら嬉しいです。たまにイベントもしているので、機会があったらご一緒出来たら嬉しいです。
あおい
私にとってぶんじ寮 (こばやしゆうこ)街の寮ってなんだと怒ってきた三年間に感謝
この扉をおもくあけた
わたしにとってのぶんじ寮は物語をこちらにかこう。
そう作り話ではない
私の人と自分と生きた時間そのものだ
コロナの自粛モードの
2020年11月23日
船出のイベント?の日
わたしは、みんなでとか大嫌い絶対すまない住めないとおもってた。
でも、かげっち(大家に)体験してみないとわからないから 一度住みたいと申し出て、翌日11月24日に かげっちにお迎えをお頼みして、荷物を運んでもらった(体験ではなくて、全荷物をまとめてしまってた。)
わたしはぶんじ寮でこれをしたいと出した紙があるそれは虐待を受けた人が過ごせる昼間の居場所です。
それがしたいと思って街の寮に住めないけど興味を持っていたのだ
ぶんじ寮の船出の翌日
2020年11月24日から私のぶんじ寮の住まいの始まり
私のぶんじ寮の始まりの日が突然やってきた
一言でいえば
学生
教室
人がこわくて
大嫌いからはじまって
信じれない怖いからはじまった。
はじまりはまだみんな来てなくて
二人暮らし。
大きくて誰もいない寮、一言で言えば怖くて、怖いと思わないように!暮らしてました。
その中で新鮮な初めての
優しい大学生の大原くんのおかげで私はかなり救われたのだ
大学生がこわかったわたしは彼の存在のおかげで、なんとか新しく入居してくる人たちを掃除しながら
お茶を用意しながら
ぶんじ寮でくらしていた。
〜なんとか、自分とつきあってあげた修行に来たんだ〜
社会的養護出身と精神障害のわたしを捨てた日 はグランドファンディングのぶんじ寮の達成した日
わたしはもう 子供も 学生も お父さん母さん世代も フラッシュバックがして 苦手怖い からはじまった。
人を見ないように暮らした。
気に入られようとして
無理して掃除した時もあったとおもう。頑張って天ぷらしたときもあったとおもう。
ずっとずっと自分がどうしたら
このぶんじ寮に
いられるかと 自分が他の人と世界が違うと思って 内心いつも安心しながら苦しかった 初めの頃。
わたしは伝え方も、話し方も、全部どうしたらいいかわからないから、はじまったとおもう。
社会的養護の出身がいかにトラウマをかかえて、生きていくかを厚生労働省で意見を発表した挑戦の夏の発表、数ヶ月後のぶんじ寮への住まいへの挑戦が始まりをむかえ、
わたしのこれからの変化を感じていた。
不安もありでも、でも希望を強くもっていきたいとおもった。
社会的養護の出身や精神障害で生きるのにもう疲れて、私で生きたかった。
このカウントダウンのグランドファンディングの日はそんな私の一歩目だった思う。
人なんて私なんて無理でも希望を持ちたいと一歩一歩踏み出した全てのことが始まった動いた出会いのぶんじ寮
居場所を開きたいとおもってたし、将来に家賃の負担が減り、大学に行けるかもしれない、私のすきな料理であとはいままで経験でなにかできるかもしれないと挑戦をしたいと思い動き出した。ぶんじ寮の出発は私と生きる 命を燃やして生きる挑戦だったのだ。
そしてすぐ
2020.11.30 ぶんじ寮の食堂で 人の人休みのとまり木をひらく。
わたしが苦しかった
ときに
欲しかったものをつくりたい
トマリキに町の子がきたでも住まいの人とうまくできない。苦しんだ数ヶ月
そこからとまりきに町のコロナで施設が封鎖もあり、町の子供たちがたくさん、
出会いで 子供達がくるようになり、
でも住まいの人からの戸惑いがあり
さらにどうしたらよいか
まよう。一年目。
住まいと街の人の要望になやむ
はじめてのくらしのくるしみ。
を感じて精神的にとまりきを開くことにくるしく落ちていった。ぶんじ寮がきらいになっていた
かげっちと愛情押し付け弁当が
2021.3.17はじまる
そこから休むもトマリキも愛情押し付け弁当もぶんじ寮も、続けてきた。
写真で紹介していく。
たくさんの人が一緒に作ってくれて
食べてくれて、街の人とつくれたお弁当だった。
街って 錯覚をしなくても
人と人が混じり合う
なかよしとか仲悪いとか喧嘩しても
いる
そこにおわりもなく
またまじりあい
けんかも流れていく
傷ついたも流れていく
時間がでなく街がのみこんでいく。のだと思う
まずはお弁当を7こ。天丼から始まった。
町の配達をゆずりはにしました。
私のお世話になってたところです。
そこから、ぶんじ寮の住まいの方が応援してくれて、ささえられて、 私が一人で勝手に営業して、配達先を増やしました。
いまでは3年で、1580個作り届けれました。配達先は、街に8こ。町の人も、買いに来てくれます。なかでも同じ住まいのぶんじ寮の子が食べてくれると本当に嬉しいです。
障がいと私の街の寮で暮らした三年の振り返り
一言で振り返れば、わたしは解離性同一障害で、多重人格なのだが、トラウマ治療をしながら、ぶんじ寮の暮らしや、ほぼひきこもりからの町の人の出会いや暮らしや、愛情押し付け弁当の住まいの人と対峙して、難しい問題に対応したり、将来の不安に押しつぶされそうに、人間関係に対応がとてもきつかった。
街のこの寮のおかげで私が私として生きていく方向にむかい、見つけれたようにも思う。
障がい者や 社会的養護の中で生きていくつらさと、良さを知る
たくさん傷ついたしたくさんそれを乗り越えたようにおもう。
おかげで、人として私は生きていく感覚がいまは前よりある。
ぶんじ寮の乗り越えたものやある存在に押されて
挑戦できた
自然農の田んぼ、畑の学びと
畑と田んぼ作りの挑戦
そして、今年4月から自然農の畑と田んぼを学ぶ挑戦をしている。
学校にいくということは
人生と仕事への挑戦だとおもっていた。
仕事を選んだようで選べない人生をあるいてきたようにおもう。
はじめて、自然農を学びたいと思ったのだそれを生かして将来人を喜んでもらえたらと思って動けたことだった。
4月から9月にかけて
ぶんじ寮に畑やたんぼをつくり
今も畑と田んぼは維持して挑戦している。
最後に夢はある
志もある
みんなの志をぶんじ寮では感じて暮らしている
年齢は関係なく、生きて暮らしている
隣に
人がいる。
分かり合えなく理解し合えなく
むかつく。
こともある
でも、ご飯を一緒に食べたり
おかえり
行ってらっしゃいといえて
迎え入れられて
子供もいてくれる
猫もいる
私はこんなに恵まれた
辛くも、楽しく
悲しく傷つくも信じてるから
言葉にする経験ができたこの街での人のつながり、場に感謝している。
だれかはいう
人を言葉で傷ったらいけないと、
私は思う
素直にもっと言葉にしていい
形作らなくても
笑顔になれなくても
ないても
叫んでもいいとおもう。真剣になら。
真剣にその人にそのことにその時間に向き合う
それが傷つけ愛でも私は信じる力を持てるようになった。とおもう。
私にとって ぶんじ寮は
お別れと始まりをかさねて
人とを大切にすごし暮らしていくことを
教えてくれてるところ
立ち止まってごらんよ
その空を土を風を虫を目の前の人を隣の人を
体当たりで
目の前の命と命をもっと感じていいのだと社会からはずれて あつく学べた
私の行きたかった大学が きっとぶんじ寮大学だ。
最後に最後に最後に
わたしにとってぶんじ寮は
感謝。私と人とと自分と病と、、、そして、とりと田んぼと、畑と、ゆめと、
の から と。を考えて学んでいるところだ。
最後にこれからの夢。
つかれたらかえってこれる
みんなの実家を最後は作りたいと26からおもってきた。
ぶんじ寮があるからできることがある。
そのために
18から社会的養護出身で、自立を強いられてきた。大学や高校への学びが希望を持ってはいかなく、労働をせざるおえなかった。
なので家賃がぶんじ寮が0円になったら今もかなり安いけど、
このサポートのあるうちに、私は
社会的な用語でいえば
経済的な自立
(自分で暮らしていけるお金を自分で雇われずにつくる)
と
学びたいことをしたい
それは子供の時から虐待で保護されたり そういう家庭の下で学びに集中できなかったから大学へ行きたい思う。
自然農畑 田んぼ、そして料理。
将来、親のサポートの得られない子に(親がいても親の元でも)
何らかの形で、わたしも
その子が社会に出た時に出る前に 大人になって傷ついてる人へも なにか疲れた時に 元気になれるサポートを 隣でできるようにしたい。
編集後記
編集というほどのことはしていません。8号室のまさまさです。明日はしょうもない万博ですね。今は前日の22日22時です。みんなに「わたしとぶんじ寮」書いてよ!と呼びかけたのは、2ヶ月くらい前な気がします。一旦の〆切は11/11とします。そう呼びかけ、11日にnoteを開くと書いていたのは、1人。20数名住んでいて、〆切を守れる人は1人ですよ。これがぶんじ寮です。ほとんどが、21、22日あたりに私も書きたいとかいいながら書いてました(笑) 中には、2024だよ!って言ってるにもかかわらず、2020年ごろから振り返る超大作を作ってくる人も…(苦笑) これがぶんじ寮です。 自分の気持ちが動いた時に動いた分だけやってみる。そこには他者もいるけれど、他者も鑑みるけれども、やっぱりまずは「私」がそこにはあるのです。そんなことをおもいながら、みんなが書いた文章を1つのnoteにまとめていました。写真ばっかり載せやがって…そんなことをおもいながら…(笑)あと、文章書いていない人が、半数以上いる気がします…僕にとってはとても残念なことですよ、ほんとに。
でもでも!!めっちゃよくないですか?みんなの言葉がつまった「わたしとぶんじ寮2024」それなりに寮生も気合いが入ったことでしょう。 結構キレイな言葉が並べられていましたね。 まぁ実際暮らしている者としては、そんなキレイなものじゃないですよ。 ここの暮らしには、傷もたくさんあります。でも、筋トレみたいなものかしらね…傷つけ合ったくせに、その傷を自分たちで癒やし合って…関係性を築いてきた、その様がここにはあると思うんです。 アウトプットするときに、きれいな言葉を並べたいのは嘘じゃないはず。 ここでは書けない、書きたくないあんなこともこんなこともあったかもしれないけど、それでも自分が過ごした場所を愛したいんだと思います。 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。ぶんじ寮に興味がある!って方は、ぶんじ寮に興味ありますフォームからお問い合わせくださいね。また、僕らの暮らしに興味を持ってくださった方は、ぜひSNSのフォローをお願いします。 最後の最後に、お願いでもしておきましょうかね。この文章、私とぶんじ寮がよかったな…って思った方はぜひ僕らのこの暮らしの応援団として、寄付をお願いします。
【お知らせ】
ぶんじ寮4周年にして「自治会」を発足することにしました。「ぶんじ寮じちかい」通称:ぶんじち、です。
ぶんじ寮を「知りたい」
ぶんじ寮に「関わりたい」
一緒に「遊びたい」
そんな方々を募集します。ぜひ、上記のnotionを参照の上、ぶんじち(ぶんじ寮じちかい)にお申し込みください。
その他、ぶんじ寮に興味があるって方はこちら
ぶんじ寮のSNS
Facebook:https://www.facebook.com/bunji.ryo
Twitter:https://twitter.com/bunji_ryo
Instagram:https://www.instagram.com/bunji.ryo/
litlink:https://lit.link/bunjiryo
ここから先は
¥ 1,000
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?