ぶんじ寮 暮らし三箇条
こんにちは!
ぶんじ寮元20号室まこです。
はじめに
ぶんじ寮って何?
そう思ったそこのあなた!
詳細は以下リンクから↓
ぶんじ寮の成り立ちと、その見据える先にある景色は、モーションギャラリーにお任せ。
というのも、モーションギャラリーの説明文、
入寮申込フォームを書くために一読はしたけど、
正直、私自身、ぶんじ寮の歩みをそこまで知っているわけではないから。
住むところも働くところも決めないまま
ノリと直感で島根から国分寺へやってきて
いつの間にか始まっていたぶんじ寮での生活
だから、ぶんじ寮の過去と未来は語れない。
でも、ぶんじ寮で10ヶ月暮らして見えた景色なら語ることがてきる。
ということで、これから何本か
「内側から見えるぶんじ寮」
について書いていこうと思います。
では、さっそく・・・
ぶんじ寮暮らしの三箇条!
①他者に求めない
②ご機嫌でいる
③NOと言う
①他者に求めない
ぶんじ寮では他者に「頼る」ことができる。
でも、「求める」と大抵不和を引き起こす。
常時、約20人が暮らすぶんじ寮。
住民内コミュニケーションはSlackを使っています。
「風邪ひいた…」って投稿があれば、ご飯や飲み物、薬を部屋の前まで持っていく人が現れる
「今から帰るからご飯炊いといて〜」ってあげれば、帰宅時にお釜の中にホカホカご飯が
こんなことが日常の風景としてある。
それもこれも
「困ったことがあれば頼ってね〜」
というスタンスの住人が多いからこそ。
ぶんじ寮には、「頼る」ことを受け入れる土壌があります。
さて、もちろん逆も然り…なわけで。
さまざまな背景をもつ人が暮らす場なので、価値観や生活習慣の違いから、衝突も起こります。
<ケース1>
食べようと思ってとっていた○○が、ない…!
えっ、もう悪くなってると思って捨てちゃったよー
名前書いてなかったから食べちゃったー
(泣)
<ケース2>
トイレットペーパーなくなったら補充してよー
なんで芯だけで放置してるの!?
(特に、冷蔵庫問題は当初から永遠のテーマらしい…)
その都度その都度、人間ドラマが繰り広げられるのですが、衝突が起きた後、ギスギスした空気が漂い続けるのはどんなときか?
それは、多くの場合、
「こうしてよ…!」
「なんでやってくれないの!?」
「これくらい常識(当然)でしょ!?」
と誰かが誰かに対して何かを「求める」ときです。
でも、そもそも「頼る」と「求める」って何が違うん?
「頼る」って、言い換えたら「助けを求める」じゃん。
イメージとしては
「頼る」: できないことを伝え、補ってもらう
「求める」: できることを自分基準で押しつける
ってな感じ。
「頼る」は力の流れが双方向で、「求める」は一方的、と言ってもいいかもしれません。
まあでも、お互いの信頼の密度によって言葉の受け取り方って変わってきたりもするので、関係性を育む中で、受け取る側の捉え方が「求められている」から「頼られている」に変わる可能性もありますよね。
だから一概には言えないのですが、肌感覚として「求める」ことが不和を生み出す光景はわりと目にしていたなぁ、と思います。
②ご機嫌でいる
人間、感情を捨てて生きることはできません。
そして、いくら気を強くもっていても、やっぱり周りの人が発する空気に影響を受けてしまう。
それが人間という生き物です。
それはもうしゃーない。
まぁでもできることなら、
ピリピリせかせかしくしくずーん、な空気感よりも
ニコニコゆるゆるぽかぽかほわん、みたいな感じ
の方がいいじゃないですか。
で、それへの一番の近道って、
1人ひとりが自分で自分の機嫌をとる
ってことなんだと思うんですね。
別にわざわざ、周りを楽しませよう、笑顔にしようってしなくても、自分が整っていて余裕があれば、少なくとも自分の周りの空気は緩みますよね。
とにかくまず自分。
他人は変えられんけど、自分は変えられる。
もちろん、自分のことでいっぱいいっぱいで、怒りとか悲しみとかやるせなさとか不甲斐なさとかが、どうしようなく漏れ出たり、溢れ出したりしてしまうこともあるけれど。
でも、平時に整った状態でいれば、そういうバランスが崩れたとき、その負のオーラは悪影響というよりもむしろ、「どうしたの?」と周りのケア力を引き出して、助け合いを生む呼び水になりうるかもしれない。
そんな現実は甘くねーよって、それはまあ確かにそうなんですが、わりとそういう光景も見てきた気がするんです。
ぶんじ寮には、なんというか、自分の取説みたいなものをちゃんとわかっている人が多くいて、そういう人は快適に過ごせているなぁ、という印象です。
逆に、なんかちょっと苦しそう、という人は、それこそ感情的な救済を「求めて」いる感じを強く受けます。
ただ、ここも難しいところで、どんな人が周りにいたか、どんな声かけをされてきたか、どんな関わりの中で生きてきたか、といった要素がそういう在り方を作り上げているんだろうな、というのも感じます。
でもやっぱり、その在り方を続けているのは自分だ、ということに目を向けると、「自分で自分の機嫌をとる」ということは不可能ではないよな、とも。
ま、最終的に、本人がそれで満たされているのであれば、はたから見てどんなだろうといいんですけどね。あまりにもその場の空気をそのオーラで支配していない限りは、ですが。
③NOと言う
ぶんじ寮の住人はわりとドライです。
もちろん社交的な人や気配り・目配りさんもいるけれど、お互いにつかず離れずの距離感を保っている感じがある。
ただ、「ドライ」といっても、事務的なやりとりしかないとか、プライベートな話はしないとかそういうわけではなく、
お互いに、相手のパーソナルスペースを尊重した関わり合い方をしている。踏み込むときもあるけど踏み込みすぎない、相談もするけど寄りかかりすぎない。
そんな感じの「ドライ」です。
「言わないと伝わらない」
シェアハウスといっても、他人の集まり。
家族のような意思疎通を求めることは難しい。
だからこそ、ぶんじ寮には月2回、住人ミーティングという、意見交換の場が設けられています。
といっても堅苦しい感じではなく(初期の頃は侃侃諤諤だったらしいのですが)、安否確認もかねて、近況報告をしあうゆるっとした場になっています。
ミーティングでの肌感覚として、
「こうしたい!」「こうしてほしい!」のぶつけ合いになると、平行線で話がまとまらなくなりがち。でも、誰かの「NO」に対しては、住人それぞれがちゃんと聞く耳を持っているし、どうにかして聞き入れようと真剣な話し合いが生まれる。
そんな感じがします。
だ・か・ら!
「NOと言う」ことはとっっっっても大事!
嫌なこと、気に障ることって人によって違うし、それを知ることで無駄な諍い防止にもなる。
「NOと言う」のは勇気がいることかもしれないけれど、お互い心地よく暮らすには「NO」の共有が必要不可欠。
そしてぶんじ寮には、それがある。
住人相互のパーソナルスペースの尊重する在り方は、多分にここから来ているように思います。
まとめ、、、のようなもの
それぞれがそれぞれのペースで暮らすぶんじ寮。
一般的なシェアハウスの
「アットホームで和気あいあい」
な雰囲気とは、ちょっと違う。
いうなれば、「放っといてくれる」シェアハウス。
でも、それが、過干渉な家族のもとで生きてきた私にとっては、とても暮らしやすい人と人との在り方でした。
おわりに
さてさて、いかがでしたでしょうか?
ぶんじ寮での暮らし、少しは垣間見れたかなぁ。。
初回から3000字超えの文になってしもーた(汗)
最後までお読みくださり、本当にありがとうございます。
ぶんじ寮、ぜひ一度ふらっと立ち寄ってみてください!
写真: chiemi_moi
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