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私が動物散布の研究を始めたきっかけ

Author:小池伸介(農学博士)

私が「動物による種子散布」(以下、動物散布)研究を始めて25年近くになります。ただし、最初から動物散布の研究をしたかったわけではく、興味があったわけでもありません。
私は大学の卒業研究で、ツキノワグマ(以下、クマ)の食性(つまり、食べ物)の研究を行い始めました。そのため、毎日森に分け入ってはクマのウンチを探し、発見しては研究室に持ち帰り、分析するという、いわゆる”糞分析“と呼ばれる作業を繰り返していました。
分析と聞くと、たいそうすごいことをやっているようにも聞こえますが、やることはシンプルで、ウンチの中に含まれている物を明らかにする作業です。茶こしを大きくしたような“ふるい”の上にウンチをのせて、蛇口から流れ落ちる水でウンチを洗います(写真1)。マス目の幅が違う何種類かの“ふるい”を使ってウンチを洗い流すことで、ウンチの中に含まれるさまざまな大きさの物が、それぞれの“ふるい”の上に残ります。

写真1 “ふるい”を使ってウンチを洗う。

次に、“ふるい”の上に残った物をプラスチックのバットの上に並べて、目視あるいは顕微鏡などを使いながら、その正体を突き止めていきます(写真2)。ただし、当然ながらウンチに含まれている物は、クマが食べる際に歯で噛みつぶされ、消化の過程で破損されることも多く、元の食べ物の姿を保っている物はほとんどありません。

写真2 バットの上でウンチから取り出した物を探る。

ですから、ある破片(例えば、虫の足や葉っぱの断片:写真3)から、食べ物を推理していく作業の連続です。推理というと、何か楽しそうな雰囲気を感じるかもしれませんが、黙々とウンチから出てきた破片を、ピンセットを使ってつまみ、仕分ける作業は地味そのものです。

写真3 クマのウンチから出てきた葉っぱの破片。

このような作業を続けることで、ウンチの中に何が含まれているのか、つまりそのクマが何を食べたのかがわかってきます。しかしながら、ウンチを夜な夜な洗いながらあることに気づいたのです。
当然と言えば当然ですが、ウンチは食べた物のなかでも、消化されなかった物の集まりであって、本当にクマにとって大事なのは消化されて、体に吸収された物です。その情報がない限りは、本当のクマの食性はわからないのです。つまり、このままウンチを拾い、洗い続けて、果たして自分の卒業論文は完成するのか?という矛盾を感じる日々を送っていました。

そんな不安を抱えながらも、約300個の糞を洗い終えて、あとは卒業論文を書くという段階で、大きな方向転換がありました。あるゼミの場で、「クマの夏の食性は、葉っぱが30%、アリが20%、サクラの果実が50%、数で言えば〇個です」といった報告したところ、先生やほかの学生から「なぜ、果実だけ数がわかって、アリや葉っぱは%なの?」といった質問がありました。サクラの果実は私たちが食べる佐藤錦といったサクランボと同じく、果実1個にタネが1個含まれています。そして皆さんも経験したことがあるかもしれませんが、サクランボのタネは硬く、割ろうと思っても奥歯を使わないと割れないように、野生のサクラのタネも硬いのです(写真4)。

写真4 クマのウンチから出てきたさまざまな植物のタネ。

そのため、クマのウンチの中からサクラのタネはほとんど割れることなく見つかりますし、割れていても真っ二つに割れているので、パズルのようにもう1個の割れたサクラのタネを探し出せば、1個のタネを復元することができます。そのため、ウンチに含まれるサクラのタネの数は正確に数えることができます。
「卒業研究はクマの食べ物」という動物の視点でしかクマのウンチと向き合っていなかった私にとっては、果実(正確には液果、タネのまわりが肉質の果肉に覆われた果実)のタネがクマのウンチから見つかったとしても、すぐに正体がわかるので、そのウンチを分析する時間の短縮になってラッキーぐらいにしか思いませんでした。
しかし、先生やゼミの植物の研究をしている学生からすると「ウンチの中にタネが含まれている=クマがタネをまいている」という発想になったようで、私を蚊帳の外に、その日のゼミは動物散布の話で盛り上がったのです。恥ずかしながら、私はそれまでまったく植物に興味がなく、種子散布という言葉すら意識したことがなかったため、動物散布が何なのかもよくわかりませんでした。

この日のゼミを境に、私の卒業研究は「クマの食性」から「クマの種子散布」に変わり、ウンチの中の大きさが数ミリのサルナシのタネをはじめ、さまざまな植物のタネを数えなおす作業を開始することになりました。
この日のゼミは、私の卒業研究が「クマの食べ物」から「クマの種子散布」に変わる分岐点になるとともに、私が動物散布の世界に足を踏み入れた記念日となりました。私は不勉強な学生だったので偏った視点でしかクマのウンチと向き合っていませんでしたが、まわりの勉強熱心な人々が動物以外の視点を持っていてくれたおかげで、私は種子散布の世界に飛び込むことができました。もちろん、卒業論文ではいったん遠ざかったクマの生態研究も、その後もクマのウンチを拾い続けることで、25年間にわたって継続することができています。

いずれにしても、今でも私は片足を動物散布に、片足をクマの生物学に突っ込みながら研究を続けることができているのは、当時のサクラのタネが入ったクマのウンチのおかげです。このウンチに出会わなければ、今の自分はなかったと思うと、今でもサクラのタネが入ったクマのウンチに山で出会うと無性に感慨深さを感じ、同じような写真を何枚も撮り(写真5)、そして研究室に持ち帰ることをやめられません。

写真5 線路沿いで見つけたサクラのタネの入った大きなクマのウンチ。


動物による種子散布について興味・関心を持たれた方は、『タネまく動物:体体長150センチメートルのクマから1センチメートルのワラジムシまで』を、ぜひ手に取ってご覧ください。

Author Profile
小池伸介(こいけ・しんすけ)
東京農工大学大学院教授。博士(農学)。専門は生態学。主な研究対象は、森林生態系における生物間相互作用、ツキノワグマの生物学。著書に『クマが樹に登ると』(東海大学出版部)、『わたしのクマ研究』(さ・え・ら書房)、『ツキノワグマのすべて』(文一総合出版)、「ある日、森の中でクマさんのウンコに出会ったら」(辰巳出版)など。

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