自己犠牲という呪い――鹿目まどかと暁美ほむらは“キリストを超えた前田敦子を超えた”?
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※本稿は2013年10月の『劇場版魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』公開後、2013年12月に執筆された原稿に加筆したものです。
2013年10月26日に公開された『劇場版魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』での暁美ほむらの行動は、映画の公開後にさまざまな反響を呼び起こしました。例えば、彼女の行動をTV版でのまどかの達成を踏みにじったものとして非難する人もいましたし、またそれをまどかに対する「性欲」の現れであるとして捉える言説も見られました。しかし、筆者の考えではそのどちらの読みも真実を掴み損ねています。では、どういうことなのでしょうか。
ほむらに対する行動分析
まず映画を通してのほむらの行動を振り返ってみましょう。物語前半での彼女は記憶を失っています。彼女はそこにTV版の幾度のループと同じく転校生としてやって来ますが、中盤でその世界は実は、インキュベーターの策略によって彼女自身が作り上げることになった夢の世界だったという事実に辿り着きます。そのインキュベーターの策略とは、一言でいえば魔法少女として力尽きたほむらを踏み台にして円環の理に到達しようというものでしたが、真実を知ったほむらはその策略を挫くために自ら魔女となり身を滅ぼす道を選びます。
ところが、まどかやマミといった周りの魔法少女たちの活躍により彼女は救済されます。魔女化による自滅の運命から救い出されたほむらはしかし、円環の理としてのまどかによって導かれようとしたまさしくその瞬間、不敵な笑みを浮かべてまどかを円環の理から引き剥がしてしまいます。こうして己の愛によって神の秩序に背いたほむらは、自ら悪魔を名乗ることになるのでした。
以上が映画本編を通してのほむらの行動ですが、議論を進めるに当たって筆者はここで二つの問いを立てることにしたいと思います。
1)以上のほむらの行動は明らかに一貫性を欠いているように見えます。具体的には、物語中盤までは自ら魔女化を選ぶことで身を滅してでも円環の理=まどかをインキュベーターの手から守ろうとしていた彼女が、にも関わらず後半では悪魔となって円環の理からまどかを引き剥がしてしまいました。では、一体何が彼女の行動を転換させる契機になってしまったのでしょうか。
2)終盤でのほむらの行動は、多くの人によってほむら自身の「まどかを手に入れたい」という自分勝手な欲望のために行われたこととして受け取られています。しかし筆者の主張は異なっています。筆者の考えではこれらの行動は一貫して、ほむら自身の利己的な欲望のために行われたことではありません。もしそうだとすれば、それはどういうことでしょうか。
それらを理解するために二つのシーンを思い起こしてみましょう。
一つは物語の中盤、ほむらが見滝原市を見渡せる丘でまどかと会話を交わす場面です。そこでほむらは「怖い夢を見た」として、過去の世界でまどかが全ての魔法少女を救うため、円環の理となって世界から消え去ってしまったことを語りました。それに対するまどかの返答は意外にも、「自分にはそんなことは(ほむらちゃんでさえ泣いてしまうようなことは)出来るはずがない」というものでした。その答えを聞いたほむらは、「あの時何としてでもあなたを止めるべきだった」と、まどかが魔法少女になるのを止めなかったことを後悔をすることになります。
もう一つは終盤の手前で、5人の魔法少女たちと魔女化したほむらが戦闘を行うシーンです。インキュベーターによる円環の理への干渉という企みを阻むため自らの討伐を望むほむらに対し、5人は戦闘を交えつつもほむらを救出することを図ります。そして最後に、まどかはほむらと共に弓を構えながらこう語りかけます。「だめだよほむらちゃん、一人ぼっちにならないでって言ったじゃない(…)何があってもほむらちゃんはほむらちゃんだよ、私は絶対に見捨てたりしない。だから、諦めないで(…)さぁほむらちゃん、一緒に」。こうして矢は放たれ、偽りの世界を覆っていた殻は破られることになります。
まず一つ目の場面で重要なのは、ここでほむらが、まどかは本当は周囲の人々との別れを望んでいなかったことを知ることになったということです。その結果ほむらは、かつてまどかが魔法少女になるのを最終的に止められなかったことを改めて後悔することになります。
次に二つ目の場面。ここでのまどかの台詞は感動的ですが、結論から言えばこのまどかの言葉こそが、ほむらが行動を転換する最終的な契機になってしまったものだと言えます。詳しく見てみましょう。
一つ目の場面でほむらは、まどかは本来は周囲の人々との別れを望んでいなかったことを知ります。そして何度も言うように、まどかが魔法少女になるのを止めなかったことを後悔しています。おそらくはこの時点で、ほむらの中で悪魔となってまどかを世界に取り戻す野望はすでに萌芽していたのではないでしょうか。それでも彼女はまどか自身の選択を尊重するためにそれを抑圧していたのですが、ここで他ならぬまどか自身によって以上のような「赦し」の言葉が与えられたことによって、ついに迷う必要がなくなったというわけです。現にほむらはここでこのように答えています。「ごめんなさい、私が意気地なしだった。もう一度あなたに会いたいって、その気持ちを裏切るくらいなら……。*1そうだ、私はどんな罪だって背負える。どんな姿に成り果てたとしてもきっと平気だわ、あなたが側にいてくれさえすれば(…)もう私は、ためらったりしない」。
これで私たちは先ほどの一つ目の問いには答えを出したことになるでしょう。では次に二つ目の問いです。以上のようなほむらの行動はなぜ、ほむら自身の欲望のために行われたことではないと言えるのでしょうか。
これももはや大方の答えは出ています。三たび繰り返すように、ほむらは中盤の会話シーンでまどかは本当は周囲の人々との別れを望んでいなかったことを知ります。つまりほむらは、そのまどかの想いを叶える(=まどかを再びこの世界の人々と会わせる)ためにこそまどかをこの世界に取り戻したのだと解釈することができるのです。
ここでほむらによる世界改変後のシーンを思い起こしてみましょう。新しく作られた世界でほむらは、まどかと以下のような会話を交わしています。
「鹿目まどか、あなたはこの世界は尊いと思う? 欲望より、秩序を大切にしてる?」
「え? それは、えっと、その……。わ、私は、尊いと思うよ。やっぱり、自分勝手にルールを破るのって、悪い事じゃないかな」
「そう。なら、いずれあなたは私の敵になるかもね。でも構わない。それでも、私はあなたが幸せになれる世界を望むから」
端的に言ってこの会話に全てが現れています。「欲望よりも秩序を大切にしているか」と聞くほむらに、まどかは「秩序は大切だ」と答えます。ほむらは、ならばいずれ自分はまどかと敵対することになるかもしれないと言いますが、注意すべきなのは、このときほむらは自分の欲望のためにまどかと敵対すると言っているのではないということです。
多少遡れば、何度も参照している中盤の会話シーンでほむらはまどかに対し、「あなたにはね、どれほど辛い事だと分かっていても、それを選択できてしまう勇気があるの。あなたがあなたにしかできない事があると知った時、あなたは自分でも気づいていないほど優しすぎて強すぎる」と言っています。まどかは例え周囲の人々と離れ離れになるのは耐えられないと思っていても、多くの魔法少女を絶望から救うためならば自分の身を投げ打ってしまうのです。
ほむらが抵抗しようとしているのはそこだと言えます。つまりほむらは、まどかが本来望んでいる幸せを蔑ろにしてしまわないためにまどか自身の理念と敵対しようとしているわけです。彼女が望んでいるのは徹底して彼女自身が幸せな世界ではなく、「あなた(=まどか)が幸せになれる世界」なのです。*2
自己犠牲による利他性
これ以降は補足になりますが、最後に「自己犠牲による利他性」という点に触れてこの文章を終えたいと思います。批評家の濱野智史は『前田敦子はキリストを超えた――〈宗教〉としてのAKB48』で、前田敦子は「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という言葉に充溢する「自らを犠牲にする者の利他性」においてキリストを超えたとしています。
この認識の是非はともかくとして、「自己犠牲による利他性」を体現した存在ということで言えば本作のまどかも、人類史はともかくキャラクター史において右に出る者が居ない水準の達成をなし得たことはほぼ間違いないのではないでしょうか。しかし筆者がここで主張しておきたいのは、自己犠牲を払ったのはまどかだけではなくほむらも同じであるということです。表面的な見立てからすれば、TV版ラストでのまどかの行動は極めて利他的なものだったのに対し、今回の劇場版でのほむらの行動は極めて利己的なものだったということになるでしょう。
しかし私たちはほむらの行動が決して利己的なだけのものではなかったこと、むしろまどかへの徹底した利他性に支えられていたことをすでに確認しました。ではほむらが払った犠牲とはどんなものだったかと言えば、それはまさに悪魔という穢れた存在に身を堕とすこと、神への叛逆者の汚名を被ることだったと言えます。実際、改変後の世界にはもはやほむらの味方は誰一人として居ないと言っても過言ではありません。
だとすれば、今回の劇場版でほむらがやったこと(=自らの身を穢れたものに堕としてでもまどかをこの世界に取り戻すこと)は、前作のラストでまどかがなしたこと(=自らの身を犠牲にしてでも全ての魔法少女を絶望から救うこと)と、全く同じくらい意義のあることだったと言えるのではないでしょうか。たしかに二人の行動は全く異なった種のものに見えます。しかし二人の行動は同じ「自らを犠牲にする者の利他性」に貫かれている点で、やはり同種のものであると言えるのです。
自己犠牲という呪い
ところがここで自己犠牲というのは一つの罠であると言うこともできます。なぜならまどかとほむらの関係においてそれは、ただ美しいだけのものではなくまるで呪いのようにも機能しているからです。詳しく振り返りましょう。
TV版でまどかは自分の存在が世界から抹消されることと引き換えに全ての魔法少女を救いましたが、劇場版でほむらはそのまどかを再びこの世界に取り戻しました。ところがその代償として、今度はほむらが悪魔という存在に身を窶すことになってしまいました。
つまりほむらは、前作でまどかが引き受けていた自己犠牲をキャンセルすることによって、今度は自分がそれを(別の形で)引き受けることになってしまったのであり、ここではまさに自己犠牲が呪いのようにまどかからほむらへと連鎖しているのです。
だとすれば、あるかもしれない次回作で行われるべきことも大方決まってくるでしょう。それは何よりもまず、そのような自己犠牲の連鎖を止めること、まどかを救うことによって自らを犠牲にしてしまったほむらが救済されることです。そしてその担い手はまどかでなくてはなりません。最初に他者を救うために自らの身を犠牲にすることを始めてしまったまどかこそが、その連鎖を止めなければならないはずです。まどかによるほむらの“自己犠牲を伴わない”救済、そして終わらない自己犠牲の連鎖(ループ)からの脱出。これらこそが、来るべき次回作に期待されることだと言えます。
(注釈)
*1 ここでほむらは「もう一度あなたに会いたいって、その気持ちを裏切るくらいなら」と言っており、こう言っている以上結局まどかの奪還はほむら自身の欲望のためだったのではないかという反応もあり得ます。しかし、まどかの言う「ほむらちゃん、さやかちゃん、パパやママやタツヤ、それに仁美ちゃんやクラスのみんな。誰とだってお別れなんてしたくない」という願いを叶えることで結果的にほむら自身もまどかに再会することができるのであり、ここでは二人の願いは同じベクトルを向いている(=まどかの願いを叶えることが同時に自分の願いを叶えることにもなる)という解釈を示すことができます。
*2 したがって、二つ目の問いの答えは「一連の奪還劇はほむら自身の欲望を叶えるためではなく、まどかの(本来の)欲望を叶えるためにこそ行われた」ということになります。たしかに、それすらも結局は「「まどかの欲望を叶えたい」というほむらの欲望」に過ぎないと言うこともできるでしょう。しかしここで強調したいのは、少なくともそれらは「まどかを思いのままにしたい」といった利己的な欲望によって行われたのではなく、「まどかの願いを叶えたい」という言わば利他的な欲望によって行われていたはずだということです。
執筆者:meta2(@meta_2)
2000年前後のエロゲとセカイ系が好きな大学生。立教大学文芸批評研究会機関誌『文/芸』Vol.1-Vol.5編集長。
これまでの文章に「ノベルゲームの時空間表象――『Ever17』、『Remember11』について」(『文/芸 Vol.1』)、「北野武への招待、あるいはその可能性の中心」(『文/芸 Vol.3』)、「虚淵玄アニメ脚本論――『BLASSREITER』から『翠星のガルガンティア』まで」(『文/芸 Vol.4』)、「ミステリーの下拵えとしてのジュブナイル――殊能将之『子供の王様』についての解説」(『文/芸 Vol.6』)など。