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紙の上の旅(紀行文・第2回)

運転台の後ろから先の道を見遣る。線路の行く手に工場の、鉄の林が待ち構えている。更に先を見ると線路がその奥へ吸い込まれている。電車は岳南原田を出ると、手前で分岐することもなく、速度を上げながら工場群へ迷い込んでゆく。左右に上方、至る処を縦横無尽に錆びた鉄骨が走る。こいつは本当に人の乗る為の鉄道なのかと心細くなるかもしれない。線路は曲線を描き、見通しは効かない。効いたと思ったら古ぼけた貨物ホームが至近に現れる。これらの何処かに滑り込んで出荷されるのではないかとすら思うだろう。でも大丈夫だ。異邦の乗客を不安に叩き落した処で、多数の構内側線を擁する比奈駅の、人の降りるホームへ滑り込む。眼の前に工業団地が聳え立ち、遠巻きに工場の取り囲む駅だ。数年前まではこの広い構内の幾つもの側線で、機関車と貨車が盛んに入替えを行い、駅にも運転要員が駐在していた。今では貨物列車の運行もなく、駅員もおらず、主を失った構内に風が吹き付けているだけだった。

比奈を出ると、構内から伸びる貨物ヤードが同じくその主を喪失し、虚しく長い線路を横たえている。ヤードを見ながら川を渡り、少しすると、小さな整備工場を併設した岳南富士岡駅に着く。工場からは音がしない。側線に、用を終えた機関車と貨車が繋がれて眠っている。

「墓場」

という単語が頭をよぎり、私は思わず機関車を見直した。それに続き、列車が通って来た比奈駅の構内側線に貨物ホームが脳裏を掠める。

線路はこの辺りから急に住宅街へ入ってゆく。家々の合間から畑も現れる。畑を宅地に開発した地域らしく、真新しく生活感のない家がやけに目立った。だが市街に建つ住居のような込み入り方はなく、閉塞感すら覚えるような生気のなさからも、流石に僅かばかり開放されたようだった。遠巻きに山も見え始める。勿論、富士山も見える。私はそれを眺めて欠伸をかました。

家々の並びを臨みつつ須津、神谷と停まる。吉原本町から乗った客は神谷で降りた。一人残った客を乗せ、電車は駆ける。駆けてゆくと、やにわに厳つい鉄とコンクリートの横に長い構造物が、万里の長城もかくやと言わんばかり線路の方へと迫って来る。東海道新幹線だ。此方からでは嫌でも目立つが、あちらの車窓から此方を見ている人間が、果してどれだけ居ることだろう。

新幹線の高架をゆっくり潜ると、電車は終点の岳南江尾駅へ滑り込む。

私はホームに降り立つと、初めて来た時と殆ど変らない駅の様相に嘆息した。終点なのか、この駅は。線路の先に車止めがあり、その行く手を小奇麗な新興住宅が阻んでいる。運転士が黙々と折り返しの準備をしている。折り返す電車に乗る客もない。モルタル造りの古い駅舎こそあるが、駅そのものは無人だ。辺りを見ると、住宅の他に、倉庫、雑草の生えた空地が目立った。駅の沈黙に合せて周辺も沈黙している風に見えた。この場所は少なくとも「街」ではない。降りてその空気に触れ覚えたことだが、空気に「生活」の気配は薄く、活き活きと躍動する人間の痕跡がない。時間の流れの中で削がれたかも知れないと言えば、それも納得の行く光景だった。岳南電車の線路は、中途半端に住宅街――と呼んでよいのかどうか判らなくなったが、ともかくも住宅の立ち並ぶ中へ突っ込み、そのまま力尽き途切れているような気がしてならなかった。それも長い間、同じ状態のままで。

駅を出て少し歩くと、新幹線の高架に沿った広い公園がある。遊具もなく、学校のグラウンドを思わせるようなただひたすらに広い空間だった。老人が一人ベンチに腰を下しているほかは人の影もなく、春の空気の中で静けさを保っている。少しの間を置いて切り裂いてゆく新幹線の轟音。

ベンチの一つに腰掛け、車窓の光景、鉄道の様相、そして、岳南富士岡の駅で浮んだ「墓場」という単語、それらのものをゆっくりと反芻した。

吉原が製紙工場で栄えたのは事実だ。でも栄え「た」ということ、過去形であることは忘れてはならない。今だって主要産業の一つだし、それに附随して運輸業やら倉庫業が発展したことも見れば判る。それにしたって、工場はちょっとの煙も吐かずに動いてない処も結構見えたし、そうした工場は用済みだとしたって、撤去もされずそのでかでかとした死骸を横柄に転がしている。廃墟好き、工場好きなら垂涎ものの景色じゃないのかね。でも、街の光景としては健全じゃないってことくらい、誰にだって判る。街に、道に、人通りが少なく生気もないのが、製紙工場の衰退の所為ってことは明らかだ。製紙工場に勤める人間が家族に飯を食わせ、学校に行かせ、岳南電車で通勤する。子供は同じ電車で通学する。その岳南電車は工場の産物を貨車に載せてえっちらおっちら運んでゆく。そうした営みで街の電車は成り立って来た。廃れる製紙工場と心中するような格好で、乗客が減り経営も苦しくなってきているとか言う。製紙工業の落込みで貨物列車もなくなった。確かに紙媒体のメディアは如実に減って来ている。大学じゃ、ノートをPCでカタカタ取る連中も出始めて来ている。一部の石頭教授は紙ノート以外を禁止にして、老害らしさを撒き散らしているけれど。紙に一定数の需要はあるだろうし下るにせよ下げ止まりだろうってことも判る。でも、今の吉原の工場群はこれからの時代じゃ明らかに過剰だ。かと言って、今更そうッスかと退くことも出来ない。これからの活路だって見い出せていない。

岳南電車は色々なキャンペーンで売り出しを図っている。駅にもポスターがチラチラあった。工場夜景ツアー、納涼ビール電車、富士のかぐや姫伝説。古びた佇まいの駅も売りにしている。それでも、どう見たって衰えは否定出来ないし、残念ながら、観光業で成り立ち継続出来るだけの体力やノウハウがあるかどうかは不安な処だ。資源はあるだろうけれど、余りにマニアックなんじゃないか。多彩な車窓に歴史ある風景、とでも言うなら聞えはいいだろう。でも、妙に納得が行かない。それってのはつらつら上げた疑問とか違和感に通じるが、そんな言葉で誤魔化していい「風景」なんだろうか。時代と系譜の関係は――なんて、余計なお世話と解ってても、考えるのをやめることは出来ない。観光で頑張るのであれば、応援したいとは思うけれど。

電車で吉原本町まで折返し、吉原の街を歩くことにした。

工場の稼働する様相も含め、沿線から妙に活気が伺えないのが気に掛り続けていた。その空気を車窓越しだけでなく、自分の足で浴びて確かめようと思った。

吉原本町の駅から大通りの商店街を歩く。パチンコから食堂、文房具店に旅行代理店、「街」の機能として必要なものは揃っているし、申し分ないラインナップだ。それが、精彩に欠けるのはどうした訳だ。人間は歩いている。そして、生活している。背の曲った老人がパチンコ屋から出て来たし、肉屋にはおやっさんが居てコロッケを買った。シャッターの閉った店舗にチラチラ当るが、開いた店舗の方がそれよりか多いし、此処より酷い商店街なら幾らでも知っている。店舗の古さか、人通りの少なさなのか。

通りを道なりに進むと吉原中央駅がある。駅と言っても鉄道ではなく富士急バスのターミナルで、吉原本町駅が市街中心部の東の一端であるならば、このバスターミナルは西の一端と言うことが出来る。路線バスから長距離バスまで、吉原に於けるバスの集積地で、人も集っている。バスは街の細かくまで入り、本数も多い。利用者自体は岳南電車より多い筈だが、やはり商店街そのものと同じく、賑わいに欠ける。建屋の古さがそのまま空気に乗移りでもしたかのように、蔭となったバスターミナルの中は停滞に近い空気が漂っていた。バスが人を降ろし乗せる回転の数に関らず、その空気は黙として充満していた。

バスターミナル近くの食堂に入って遅い昼食を済ますと、歩いて来た道を引き返し、駅の方へ歩いた。駅脇の踏切で待つと、電車がゴロゴロ通り過ぎ、江尾へ向い走り去る。

吉原本町駅から北、本吉原駅へ足を向ける。古びた商店や民家が道の両脇に迫っている。少しして踏切を渡り、チェーン店舗の目立つ大きい車道に出ると、今度は東に向けて歩いた。車の量は多いものの、それらの悉くが、過ぎ去るこの地に関心など示さないようだった。小川を跨ぐ橋の辺りで右に折れ、再び南へ。方向から考えれば、真っ直ぐゆくと吉原駅へ辿り着く筈だった。

小川に沿って歩き、岳南電車の踏切を再び渡る。小川脇の道は、軽自動車1台がようやく通れるか通れないかの狭さで、工場の脇を窮屈そうにすり抜けている。小川は高いコンクリートの護岸で挟まれている。

この道中で小川を多く見た。或る時は岳南電車で渡り、或る時は跨ぎ、しかもそれらのものは殆ど全て別の川だった。冒頭にも書いたが富士山麓の平野部の街は、地下水の恩恵から湧水量が多く、三島なども市街部を細々と小川が流れ、人の手で丁寧に整備されている。富士宮などは浅間大社の神域に湧玉池があり、川の源流を為している。今、コンクリートの護岸に囲まれ、汲々と流れているこの小川は、それらのものとは余りにも対照的に見える。工場の排水なども流れているだろう。今はかつて程露骨ではないだろうが、過去にそうしたことがなければヘドロ公害は起きなかっただろうし、工業への基本的な思考が変らなかったからこそ、吉原は半世紀に渡って製紙工業の街として君臨したのだ。

其処まで思い当って、諸々のことが一つの線で結ばれる気がした。

その直感を抱いたまま、川沿いに工場の脇道を抜けつつ南下する。車道に合流する処で、小川もより大きい川へ合流する。丁度その地点で、護岸に突き出たパイプから、排水が滔々と川へ注いでいるのを見た。其処で、私は、直感が確信に近い位置へ引き寄せられるのを覚えた。

吉原という街自体が、過去のものとして存在し、ある筈もない過去の中で生きているのではないか――そうした直感だった。

確信への足場は固まる。吉原駅へ到るまでの過程で、廃業した製紙工場を幾つも間近に見た。前に死骸と言ったが、本当に死体を見ている気分と言ってよかった。いつしか、吉原の製紙工場の多くがこうなったとしたって不思議でも何でもない。廃工場の瘴気が市街地の滞った空気と結び付くと、死にゆく街という言葉が急に浮んだ。工場に関る者も去り、意味も理由も失い、ただひたすら存在することに終始している。過去の生きた痕跡を、今、此処を生きるよすがとして留めたまま、街自体は過去そのままとしてなお残っている。しかしながら、時代がどうであれ、過去を引き摺り勝手にやってゆく――という訳には、どう足掻いたって行く訳がない。吉原の生み出す紙が、世界との関わりの中で必要とされるものであれば、世界が変ると共に吉原も変わらねばならない。世界に於ける吉原の意味付けが変るのであれば、それを無視した時、吉原は、時代の真空地帯として徐々に枯れゆくだけのことだ。

人の生きる限り未来、現在、過去の繋がりが止むことはない。今、此処で過去の意味とやらが崩れざるを得なくなった時、既に集った人々はどうすればいいのか。勿論、殆ど多くの人々が簡単に認識を変えられると思ったら大間違いだし、旧態依然の錆付いた認識で簡単に生き残れると思ったらそれだってとんでもない勘違いだ。なら、どうすればいいか。無前提的に、生き残る為の方策を、闘う為の戦略を考え続けることだ。それも合理的に、冷徹に。

私は吉原を旅し、我々へ近しい過去、近代の「歴史」が、こんな場所にあることを知った。それが喜ばしいことなのかどうか。棲んでいない場所に就いて生活を語ることは殆ど出来ないだろうが、私なら少なくとも停滞した場所で生きるというのは勘弁だ。

私は方丈記の一説を思い返し、いつしか反芻しながら歩いていた。

ゆく川の流れは絶へすしてしかももとの水にあらす。よとみに浮ふうたかたはかつ消えかつ結ひて久しくととまりたるためしなし。



やがて西陽を浴びる吉原の駅へ辿り着いた。駅前のタクシーが、来ない客を手持ち無沙汰に待っている。

吉原駅へ回帰し、どうやら旅の終りも近い。私は最後に寄っておきたい処があった。田子の浦港である。

田子の浦と言えばヘドロだ、と先に言った(第1回参照)。それもそうだが、田子の浦の持つ一つの側面に過ぎない。万葉の古代から名の知れた、富士を望む歌枕でもある。だから上代古典文学に命を賭ける人間にこんなこと聞かれれば、棍棒でも使って殴り殺されかねない。それに、田子の浦港と古典文学の差す田子の浦は別物と真っ赤な顔で言われるかも知れない。でも、その名を冠しているからには系譜のあることに違いない。系譜があるなら正当性だってある。東海道線だって、吉原の一つ東寄りの駅は東田子の浦じゃないか。歌枕の田子の浦とヘドロの田子の浦は違うのか、一つのものなんじゃないのか。暴論かも知れないが、この田子の浦港で確かめておきたいことが一つあった。

万葉の歌聖山部赤人の秀歌にこんなものがあって、多分誰でも知っているかも知れない。この歌が、今、この吉原の街の様相と絡む中で、どう映って来るのか?

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける

私は港から富士山を仰ごうとした。それこそ港に棲み付く野良猫のようになって、富士の大きく見える角度を探し隅々までを歩き廻った。しかし港の何処からでも、防風林に、倉庫に、そして――鉄の林に遮られ、もはやそれは叶わなかった。

山部赤人が詠った情景は此処にはない。嘆くでも喜ぶでもない。成行きとしてそうなっているだけのことだ。だが過去にあったかも知れない別の路を考えることも馬鹿馬鹿しい。其処にある現実と過去の齟齬こそが、いま、ここ、我々の時代にこそ見える「あはれなる」情景だった。

さて、帰らねばなるまい。家に同居人を置いて来ている。岳南電車の車窓、吉原の光景を見て、方向は定まったつもりでいる。生きて人間の営みをしなければならない。時代に同期し、取り残されず生き残らねばならない。私個人に出来る、具体的な処はまだ判らないが。ともかくも行動してゆくことだ。先ずはこの原稿が通るかどうか。この短い道中記を、正当な鑑賞と批判の元に曝され得るものへ仕上げ得るかどうかだ。考え尽し、書かねばなるまい。私の持てる時間は短い。では読者諸兄、ご機嫌よう。機会あらばまた会わんことを。

<了>


筆者:片上長閑(かたがみ・のどか)

文学部史学科3年次。特技は徘徊。色々あって生れる時代を間違えた野良猫。時代に取り残されつつ時代を考えるクソアナクロニスト。煙草と珈琲、甘味さえあれば復活する。最近の注目は地方と人口流動。

PCmail:kokeshi777sada☆hotmail.co.jp(☆→@)

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