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あらゆる混沌を写し込む写真を、言葉だけで語ろうとすれば、どうしても表現が痩せ細ってしまう

写真はまことに身勝手な表現媒体で、レンズの前にあるものを何でも機械的に記録してしまう。それが絵画とは全く違う機能で、絵画は人間の脳のプロセスを一度通過するうちに、必要、不必要を自動的に仕分けして、絵画として成立するのである。

それゆえ、写真表現とは何を入れて何を入れないか、というフレーミングにこそ、その表現の要諦があると思うのだ。カメラを動かすフレーミング、レンズの画角によるフレーミング、邪魔なものがなくなる瞬間を選ぶ時間的なフレーミング、などなどなどが写真技術的にはあると思う。

そうしてフレーミングしてもなお、写真は饒舌である。画像保存に必要なビット数と、テキストを保存するのに必要なビット数を比べれば、すぐわかる。それゆえ、私の偏見なのだが、写真を文章で語るということがいかに難しいことなのか、写真的表現をテキストで再現しようとすることがいかに無謀なことか、よくお分かりいただけるであろう。

そういったテキスト情報のデメリットを差し置いても、この「日本写真史(上・下)」は貴重な労作である。この本の読み方として、私が僭越にもおすすめするのが、パソコンの画像検索と一緒に読んでいく、という方法だ。たしかにこの本にも相当数の写真が収録されているが、出版の場合、写真著作権をどう扱うか、という大問題があって、著作権料を誰にどれだけ支払うのか、という書籍制作上の経済的な問題が発生するからである。

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あとは極私的な部分で、この本にポストイットで補足した部分もある。

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ひとつは敬愛する故・吉村伸哉氏に関する部分。

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もう一つは、ワークショップという教育方法が、初めて日本の写真界に登場した時のこと。このアレン・A・ダットン ワークショップに私は18歳の若造、ガキンチョとして参加していたのだった。

私はどうもアート・コレクターには向いていないようで、それよりも自分で撮影したい、制作したい、と考える側の人間のようだ。大昔に買った森山大道のシルクスクリーン作品「桜花」や、荒木経惟のハムサラダサイスを撮影したオリジナルプリントも、オークションで売り飛ばしてしまったから。数々の写真集、たとえばヘルムート・ニュートンの「ポートレート」などなども、購入はしたものの、もはや私の手元にはない。


コットン 現代写真論


ソンタグ 写真論

上記のような本を、あまりありがたがって読まないから、私の写真表現的、美学的な論拠は、かなりいいかげんなものだ。でも、カメラを持ちながら、時々撮影しながら、この世界を眺めているという根本の身体的生理だけは、裏切っていないと思う。(そう思っているだけかもしれないけれど…)

たぶん、こういった現世の混沌、無秩序、いいかげんな中を、私はふらふらと歩き続けていくのだろうと思っている。


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