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写真集「ジョルジュ・バタイユ 眼球譚頌」

眼球譚_表紙デザイン3-01

この写真集の前書きで、私はこのように書いてしまいました。
「ジョルジュ・バタイユの「眼球譚」は、それを否定するにしろ、肯定するにしろ、20世紀から21世紀の世界で、官能と暴力を描く上では避けて通れない巨大な石碑だろう」と。

今までに日本では、この作品のタイトルを冠した写真集は2冊ほど、存在します。ひとつは谷敦志氏の「眼球譚」、もうひとつは沢渡朔氏の「眼球譚 Fumika」という作品です。ただ写真というのはどうしても目の前に生身の人間や具体的な事物が存在しなければならず、「眼球譚」のように極端な暴力や官能をどう表現するのか、というとても困難な問題に直面してしまいます。それはすなわち、あまりにも具体性に過ぎる写真表現の本質的な限界なのですが。

この「ジョルジュ・バタイユ 眼球譚頌」は、作品中のただ一つの場面、最も凶暴で、最も瀆聖的なあの場面からインスパイアされたものです。それは、中条省平先生訳の「目玉の話」光文社古典新訳文庫版では128~129ページ、生田耕作先生訳「眼球譚〈初稿〉」河出文庫版では129~130ページに当たります。この場面を私は、眼球と自然界にある樹木の唐突な組み合わせによって表現しようと試みました。

小説という表現、つまり言葉のみを媒介として、読み手の想像力、妄想力を最も要求する表現形式による作品の視覚化には、このような寓意がもっともふさわしいのかもという思いが、ある瞬間に勃然と湧いてきたのです。そして眼球を置く背景として、生物的、有機的なかたちを求めた時、私にはめくれた樹皮があたかも肉襞のように見えてしまったのでした。

そのようにして、この写真群は誕生しました。ほとんどのカットはシグマDP2での撮影です。このような精緻な描写にはFOVEONセンサーを搭載したシグマDP2というすぐれた機材が必要でした。

かくして電子出版というカタチで世に問うことになった「ジョルジュ・バタイユ 眼球譚頌」であります。写真表現、芸術表現、小説表現、官能表現など、幅広い表現活動に関心をお持ちの方々にぜひご覧いただきたいと思います。

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