ヴァチカンが最も恐れた影の幕閣・井上筑後守政重の講談的人物伝 兄・正就の非業の死、初代惣目付となる、「バテレンの世紀」
二代将軍秀忠さま治下の、兄・井上正就さまのご活躍
井上政重さまの兄上、正就さまは大いに活躍なさっておりました。2代将軍秀忠さま近侍の三臣と呼ばれた井上正就さま、板倉重宗さま、永井尚政さまは、いずれもまず小姓としてお仕えになり、長じるにつれて江戸城の各室や諸門を警備する御書院番の頭、あるいは将軍の居室やその身辺警護に当たる御花畑番(御小姓番)の頭となられました。いわば将軍直属の親衛隊長でございます。皆さまがたは、これらの職を兼務しながら、奉行や老中などの幕政の中枢へと進んでいかれたのでございます。
正就さまは慶長の末年から老中あるいは奉行衆という職についておられます。これは土井利勝など宿老あるいは年寄とよばれる大局を見る人たちの下で、政務全般を執行するお立場でございます。
井上正就さまの出世の足取りをたどりますと、最初は御小姓、小納戸番頭、慶長19年には御徒歩頭、元和元年(1615)1月27日、井上正就さまは従五位下主計頭に叙任され、御小姓組番頭となり、武州井草(現在の東京都杉並区北部一帯)を領し1万百石となられます。元和3年(1617)に御側御用人となり、翌元和4年(1618)に奉行人にすすみ、元和8年(1622)には横須賀城主、5万2千5百石にまで加増され、老中となられます。この横須賀城こそ、父の井上清秀が城主の家来として仕えていた海城でございました。
宇都宮の釣天井事件(元和8年4月・1622)で問題となった宇都宮城へ、城主本多正純を取り調べに出向いたのは老中となったばかりの井上正就さまでございます。さぞ正就さまの鼻息は荒かったことでございましょう。幕府を作った家康公の股肱の老臣と真正面から対決する上り坂のサムライ官僚ですから。将軍秀忠公から、あるいは幕閣の第一人者、土井利勝さまあたりから、自分が与えられた地位にふさわしい働きをすべしとハッパをかけられ、大いに気負っていたはずでございます。
そして同年10月に本多正純が失脚され、再び井上正就さまは宇都宮城受け取りの上使として行くことになりまする。そして井上正就は、永井尚政さまと共に加判の列に、つまり年寄の一員となられました。
このあたりは今の企業の社内政治を思わせるものがございます。創業者の側近だった重役、役員をばっさばっさと切り捨てていく、2代目若社長の有能な取り巻き、という図式とでも申しましょうか。
元和9年(1623)7月、秀忠公は将軍職を家光さまに譲られて、ここに第3代将軍としての徳川家光が誕生するのでございます。
とはいっても2代目将軍秀忠公はまだご健在で、秀忠公・家光公の2元政治が、家康公・秀忠公時代のように始まったということでございますなあ。
寛永元年(1624)、西の丸に移られた秀忠公はこれまでの老職のうち、土井利勝さま、井上正就さま、永井直政さまを西丸老職となさいました。おそらく徳川家でない者にとりまして、この地位は最も高いところと申せましょう。
一方の井上政重さまは当時39歳で、そろそろ幕政の重要な部分に関与し始める頃でございました。若い頃からの忍びとしての身の処し方、あるいは西洋文明や切支丹に対する知識は、政重さまを治安維持や警察関係といった方面で仕事をなさる場合に役だったことでございましょう。この間の記録を私めが見つけられなかったのは何とももどかしいかぎりなのでございます。
ただ政重さまの収入面から見てまいりますと、元和4年(1616)に、それまでの切米(米の現物支給)による収入から、500石の知行地(場所は不明だが)を得て、元和9年(1623)にはさらに500石(知行地不明)が加増されます。後の井上政重さま御子孫の知行地が上総高岡藩であることから大雑把に類推すると、江戸の北、利根川流域かとも考えられます。これは、元和2年(1614)に家光の家臣に組み込まれたための加増のようでございます。寛永2年(1625)にはさらに1000石を加増されておりますが、これは御目付役になったためでありましょう。それぞれの加増の理由を考えるのも、政重さまの足跡を考える上には興味深いものでございます。
現在の警察庁、検察庁、かつての憲兵隊にもたとえられる、徳川幕府の御目付役の定員は10名で、上司は若年寄、部下は徒目付、小人目付でございます。目付役が置かれたのは元和3年(1615)ですから、この制度ができて10年後に政重さまはこのお役に就いておられます。徳川政権下の治安維持、警察業務のトップ10人の一人に昇進なさったのでございます。配下の徒目付、小人目付を含めると、総勢数百人を束ねておられたはず。その中には正規の武士や、隠密の役目を負った者などさまざまな人を含んでいたことでございましょう。さらにその下には汚れ仕事に従事する穢多、非人などが連なります。いわゆる戦時中の中国大陸における特務機関員や便衣隊などのような、いわゆる井上機関がはっきりした形を持ってくるのはこのあたりの時期と考えられまする。御目付役の中心は江戸城本丸及び西の丸におかれ、旗本、御家人の監視や、諸役人の勤怠などをはじめとする政務全般を監察する、いわば内務監察官なのでございました。
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