真冬のレゲエ
真冬にレゲエの静かな曲がかかっていた。白のシルク風シャツに黒の細身のパンツを履いた店員がオーダーをとりにやって来た。「モーニングセットをお願いします」と決めていたものを注文した。この店は、田舎町にしてはちょっと意識高い系の人達が集まる。出勤前にパソコンで仕事をしている人や子供連れの有閑マダム、一人で朝食を食べに来る人など様々な人たちがいる。敦も瑠璃子と一緒に散歩の途中に立ち寄った。
ウッド調で統一された温かみある店でクオリティーの高い料理と美味しいコーヒーが楽しめるおしゃれなカフェ「LATTE GRAPHIC」は、リッチ感と余裕のあるスペースが心を癒してくれる。なので二人のお気に入りスポットになった。しかも、レゲエがかかっていた。
もう20年も前になるだろうか、世田谷のオフィスに、レゲエミュージシャンがやって来た。麻布に住んでいる小川杏子が連れて来た男だ。杏子は、ファッションデザイナーで、良家のお嬢様でもある。「ジャマイカに1年くらい住んでいたの。コイツは、ジャマイカの彼氏。奥さんも子供いるんだけど、日本に来たいと言うので、連れて来た」とぶっきらぼうな説明を受けたが、敦は、何者か分からなかった。杏子は、知り合いの会社のデザイナーで、よく遊びに来ていた仲間のような存在だった。
「とりあえず、飯でも行こう。寿司食えるのか」と聞くと大好きだと返事が返ってきた。近所の寿司屋に連れて行った。「このニット帽の下に長い、長い髪を隠しているの」コーンロウという細かい三つ編みをたくさん作る独特の髪型だ。もう一つブレイズがある。「ブレイズが毛束を三つ編みするのに対し、コーンロウは頭皮に編み込みを加えるのよ」と恭子が説明するが、見たこともないので分からない。まさか、寿司屋のカウンターで髪の毛を出す訳にもいかないので、話として聞いていた。
よくよく聞くと、彼はミュージシャンで、六本木のレゲエクラブに出演するという。
「今週の土曜日にやるから、来てよね。かっこいいから」と別れ際に言われた。六本木の飯倉片町の交差点からそんなに遠くない路地にクラブがあった。かなり混んでいる。レゲエファンも圧倒的に多い。「特に、ブラックやジャマイカンなどは、いい女にモテるのよ」と杏子は笑いながら言い切った。「私もその部類だけど」と言いたげだった。「ボブ・マーリーしか知らない俺に、レゲエは無理かも」と弱腰だった敦が、クラブに入った瞬間からノリノリだった。
「レゲエはジャマイカの音楽だが、ヒップホップのルーツはアメリカのニューヨーク。レゲエがメロディに歌声を乗せるのに対し、ヒップホップはトラックにラップを乗せて演奏する」そうだ。そんな違いもあってか、敦はどちらかというとレゲエが好きだった。「いよいよ、杏子の彼氏の演奏が始まるよ」と耳元で囁く瑠璃子の甘い声がした。普段大人しい瑠璃子も、カクテルのせいもあるが、ノリノリだった。「もう、雲の上の人みたいにかっこいいわ」コーンロウの髪型で、登場した彼は別人だった。ミュージシャンの顔だった。カーキ色のパンツに、Tシャツの上に黄色の無地のシャツを無造作に着ていた。
レゲエの持っている牧歌的でのんびりした雰囲気は、海辺で寝転びながらビールを飲んで聞いているような感じだ。三曲くらい演奏が終わって、ステージを降りて敦達のところに来るのかと期待したが、プロミュージシャンになりきった彼は、寿司屋であった気の良いジャマイカンではなくなっていた。それが、敦はむしろ誇らしく思った。
それ以降、杏子とも会うこともなく過ごしたが、ジャマイカへの想いは消えたわけでもなく、情熱的な島は、1993年の映画『クール・ランニング』でも見る事ができた。「真冬にレゲエが聞こえたカフェは、センスがいいな」と思った敦はこの店が好きになってしまった。音楽が伝える力は大きい。灼熱の島から、真冬のボブスレー競技に出場することを考えた男たちに乾杯したい。全てがクールだ。
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