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みんな同じスタイルの親子ファッションの真意


マクドナルドは、年末休みに入ったためか、兎に角、混んでいた。小学生の親子連れが多く、「ファミリーセット」や「パンケーキセット」などが跳ぶ様に売れていた。カウンターには、いつものおばちゃんが二、三人いて、忙しそうにドライブスリーと店内の客両方を手際よく捌いている。間隙を縫って「ソーセージマフィンのコンビセット一つとチキンナゲット五個入りを一つ、マスタードソースで」「お飲み物はいかがです」「以上です」と敦は、棒読みの様ない素早さでオーダーした。「なんか、みんな同じようなかっこいをしているので、分からなくなるわ」と瑠璃子が行った。見渡すと、ジーンズにジャージ、子供は、ダウンにジーンズと制服のように同じようなスタイルをしている。「地元のカジュアルスタイルなのかもしれない。ことによっては、ユニクロスタイルやGUスタイルが定着してしまったかもしれない」と敦は思ったほどだ。「休暇スタイル」や「ウィークエンド・スタイル」は、ファッション業界の商品企画会議のテーマになる。それを嘲笑うようにユニクロがそれを制してしまったようだ。

一昔前は、展示会前や商品発表会の前に企画会議をした。シーズン毎に、テーマを決めて、出品する商品構成を作成するための会議だ。テーマが決まれば、そのテーマに沿って、商品デザインをデザイナーが描き始める。テーマが決まれば、メインカラーが決まり、サブカラーが決まる。素材選定は、デザインによるので、その後になる場合があるが、コストや量産に合わせて、使う素材も決める。ニットならローゲージという太い糸を使ったセーター、フェインゲージという細い糸を使ったインナーや薄手のセーターなどにする。ウールだけでなく、アクリルとの混紡などもあり、アルパカやモヘアなど特殊な素材もある。全てがコストに跳ね返るので、上代と言われる消費価格の設定が勝負となる。いくら金持ちでも、価格は重要だ。だが、価格にこだわり過ぎると品質に問題が出る。ブランド力に左右される場合がほとんどだ。だから、ロープライスのブランドは、プライオリティ(優先順位)が高いのが、コストだから、ウールが20%だろうが30%だろうが、あまり気にしない。それよりもデザインの面白さや奇抜さで勝負する。

ウィークエンドスタイルが決まった場合、オケージョンやシーンを想定する。スキー旅行だったり、スノボーだったり、スケート場だったり、雪道のドライブだったいい。そのシーンが明確に分かれば、それでデザインができる。雪柄のセーターだったり、切り替えがいっぱい入ったカラフルな防寒のダウンだったりする。コスト面で羽毛は使わず中綿の場合が多い。敢えて、タウン用のスキーパンツやスパッツやレギンス、レッグウォーマーでもいい。とにかく、様々なワードを可能な限り抽出する。それを削る作業が大変だが、あればあるだけ、ヒット商品になる可能性がある。そんな訳で、マーチャンダイザーやプランナーはこの時点が一番楽しいし、気合が入る。才能のあるデザイナーは、ワードで未曾有のデザインが浮かび、広がりが出る。広がるというのは、バリエーションの意味で、ザインやインスピレーションが拡がる意味だ。そんなことをしながらも、デザインセレクションが始まる。どんなに有能であっても、売れるという視点で考えないと意味がない。ダサ可愛いという商品がメガヒットする場合もある。ファッション界の落とし穴だ。売れ筋を徹底的に研究するとセンスがいいとかおしゃれだというだけでは、解決できない商品がある。

高感度高価格の商品が売れる訳でもない。「ブランド商品でも、なんでこれが売れるのと首を傾げる商品は多い。それは、人間の性のような気がする。緊張感から抜けた美があるんだよ」と敦は、部下の宮下綾香や土屋凛花などにいつも言って聞かせている。商品の中には、誰にも分からないが、人間性やお茶目さがあるはずだというのが敦の理論だ。確かに、完璧なデザインでも、何か手を加えたくなるデザインやフォルムがある。それがヒューマンデザインの真骨頂なのかもしれない。マクドナルドにいる人達も、安心感を着ているはずだ。コロナ禍で不安な状態の中で、ダサ可愛いものを制服化しても、同じようなスタイルでいるだけで安心する。そんな機運が高まっていると感じた。これも未来に対する不安といつ終わるか分からないコロナの影響だと思う。

「そんなもんぶち破ればいい」と簡単に言えない訳がある。危険な場所では、同化するのが鉄則だ。マスク着用、うがい、手洗い、消毒液の散布が当たり前で、やらないと自粛警察の厳しい目に晒される。トラブルや無駄な喧嘩を避けるために、従うしか方法がない。息苦しい世の中だが、全員がきっと終息すると信じている。そこが今回のコロナ禍の問題点だ。人の管理がしやすいので、このまま管理をし続けたい政府や国家は、終息させるはずがない。ビル・ゲイツ等が人口削減計画を真剣に実行しようと躍起だ。そんな時期に、人間は、どうなるのだろうかと心配する敦を尻目に、どんどん計画が実行されている。笑うに笑えない現状を笑うしかない。「ケセラ・セラ」と。どんなに嘆いても、なるようにしかならない。

ケセラ・セラは、「なるようになる(Whatever will be, will be)」という意味のスペイン語だとされることもあるが、実際はスペイン語の文としては非文法的であり、スペインで用いられた歴史もない。そのため専ら英語圏のみで(一種の擬似外国語として)使われたフレーズであると考えられている。別題として、「Whatever Will Be, Will Be」、「Whatever Will Be」(映画タイトルバック)、あるいは副題を併記した「Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be)」(現在もっぱら正式な題とされる)ウイキペディアより


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