時にはカルメン・マキ
寺山修司が主宰する劇団「天井桟敷」に新人女優として入団したカルメン・マキ。彼女のデビュー曲『時には母のない子ように』が大ヒットしたのは1969年だった。
退廃的なアンダーグランドの曲が、メジャーな歌謡曲を押しのけて、入り込んで来た。デカダンスな薄暗く醒めたムードで、学生運動真っ最中の1969年は、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」も大流行した。
笑顔を見せない退屈そうに歌うカルメン・マキに共感する若者は多くいた。衝撃のデビューだった。
当時のヒット曲は、Wikipediaによると
* 1位 由紀さおり:「夜明けのスキャット」
* 2位 森進一:「港町ブルース」
* 3位 いしだあゆみ:「ブルー・ライト・ヨコハマ」
* 4位 ピンキーとキラーズ:「恋の季節」
* 5位 皆川おさむ:「黒ネコのタンゴ」
* 6位 森山良子:「禁じられた恋」
* 7位 青江三奈:「池袋の夜」
* 8位 内山田洋とクール・ファイブ:「長崎は今日も雨だった」
* 9位 カルメン・マキ:「時には母のない子のように」
* 10位 青江三奈:「長崎ブルース」だった事を思うと異例中の異例だった。
私は未だ19歳だった。ショッキングブルーの「ビーナス」などがゴーゴー喫茶で大流行した。それの曲のコピーを生バンドで演奏していた。ゴーゴーガールが登場したり、お店の地下に通ずる壁にはサイケデリックなアートが蛍光塗料でペイントされていた。暗闇から閃光のように光るアートに圧倒された。
当時のゴーゴーには、デパートの『緑屋』の女子店員が多く、ナンパをすると一組二組必ずいた。「Oh! モーレツ」で一世を風靡したファッションモデルの小川ローザが大人気の時期で、彼女似の女の子もいた。
2人連れの女の子が突然耳元で
「遊びに行かない」
と呟いた。
本当かと耳を疑った。
遊び人のコウちゃんに伝えたが、音がうるさくて聞こえない。
もたついているうちに、大チャンスを逃して、二人は店を出てしまった。コウちゃんは、地団駄を踏んだ。
コウちゃんは、可愛い系の男の子で、郷ひろみのデビュー当時に似ていた。大学生ながら人妻の恋人がいた。兎に角、どんな女にもモテる。天性の才能があった。
店が終盤のころ、秋葉原の女の子二人組をナンパして、深夜喫茶で一番過ごした。電話番号を交換して別れた。当時は、ナンパは、普通に行われ、普通に付いて来た時代だった。そのまま、同伴喫茶に連れ込む男も多く、青春謳歌していた。
何もかも変わろうとしていた時代だ。我々団塊世代が主導権を握れた時代。音楽もアートも、演劇も、映画も、テレビも変わろうとしていた。
保守より革新、革命がヒカリ輝いていた。若さは、永遠に続くと思っていた。
1969年、私は音楽に目覚め、ゴーゴーを通してダンスに目覚めた。理屈抜きに身体が動いたり、リズムを取って、無邪気に身体を動かすのが音の本質のような気がしていた。
頭をガッンと叩かれるような衝撃があった。
デカダンスな退廃的思想が登場したからだ。そこには、創造を前提とした退廃思想だ。カルメンマキの登場で、母親がいて、親と同居している何不自由なく暮らしているのに、彼女の心と共鳴した。母のいない子供のように泣きたくなった。
音楽の力は偉大だ。詩の力はもっと偉大だ。歌手や俳優の力は最も偉大だと感じた。
カルメン・マキを見いだした寺山修司も偉大だ。
『母のない子になったなら だれにも愛を話せないない』(作詞:寺山修司)
俺は、体はカチカチなのにナンパな学生だった。このカルメン・ショックで、硬派な男に大変身。人生を変えた女の子だった。身代わりが天下一品だと自分で大笑いしてしまった。