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日本の中のフランスのような葡萄園の思い出。

謙也の高校時代に相模原市にワイナリーの広大な葡萄園があった。謙也は、親友の光ちゃんと女性のシャンソン歌手が来ると言うワイナリーに二人で訪ねた。無知のなせる技だった。

電車とバスを乗り継いで会場に到着した。大勢の音楽関係の大人達や若干のセレブ、ワイン愛好家、フランス人など、大勢の客が、ワイングラス片手に談笑していた。「どこにいるんだろう」と光ちゃんは、好奇な目でシャンソン歌手を探した。意外にも、彼女はひとりでパーティ会場として設営されたブドウ園の中でぽつねんと佇んでいた。

音楽大学を出て間もないほどの初々しい彼女は、シャンソン歌手というより、大学生のお姉さんのような雰囲気があった。それが、光ちゃんにはたまらない魅力ようだった。謙也は、それほどまで興味はなかったが、親友の大好きな女性を一目みようと、冷やかし半分でやって来た。

「すみません。Hさんですか、私フアンなんです。握手したもいいですか」と握手を懇願する光ちゃんに、優しく、笑顔で答えた彼女に、震えながらも喜びを最大限表現していた光ちゃんが頼もしく思えた。今なら、サインをもらったり、グッズやCDを買ったりとするところだが、当時はそんなものもなく、彼女から離れると手持ちぶたさだけが残った。

名前も知らなければ、場所も定かではない。相模原市の急激な発展を思うと、すでにワイナリーは、廃園になっているかもしれないと謙也は思った。これも収穫祭のようなイベントがきっかけで、謙也のフランス好きが始まったのかもしれない。その点では、光ちゃんに感謝をしている。

ある日、足元には蟻がいて、てんとう虫が、草のなかで、静かにようすを伺っていた。謙也は、懐かしむように見ていた。フレンチポップが1970年代に流行した。代表的なフランスの国民的な歌手ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)は、日本でも「シェリーに口づけ」、「愛の休日」「愛のコレクション」「愛の願い」「哀しみの終わる時」「愛の伝説」「悲しきマリー」「悲しみのロマンス」「渚の想い出」「火の玉ロック」などのヒット曲を飛ばしていた。

1960年代を牽引したのは、シルビィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan)。「あなたのとりこ」や「恋はみずいろ」などのヒット曲が生まれた。可愛らしいブロンドにキュートな口元が浮かぶ元祖アイドル、そしてロリータ系のアイドル歌手が出現した。レナウンのイエイエブラントのCMソングで”ワンサカ娘”が大ヒット!テレビCMにはミニ・スカ-トにブーツのギャルが登場していた。空前のイエイエ・ブームが勃発したのもこの頃だった。1965年の頃だった。

日本が浮かれていた時代だ。謙也がまだ中学生の14歳の頃だ。謙也が中学、高校時代は、ヨーロッパの映画や音楽が輸入され、スターも来日し頃だった。大学くらいになる頃から、全ての文化や最新文化をアメリカが独占するようになる。全ての映画、音楽、文学、アート、デジタルなどの文化が、アメリカ経由となる。アメリカでフランスの映画が流行れば、若干輸入する程度になる。ヨーロッパ文化の直射日光を浴びることができなくなってしまった。代わりにお隣の韓国や中国の文化が安易に大量に入ってきた。

フランスに興味を持っていた謙也は、アメリカのアンディ・ウォーホルのようなポップアートの世界を認めないタイプであった。そんな中、大学2年でモスクワ経由でヨーロッパへ一人旅に出ることになる。人工的文化のアメリカと伝統文化のヨロッパの違いを感じ、ヨーロッパ文化に傾倒する謙也であったが、結局、パリを頂点とするファッション業界に就職し、長年その分野で仕事をすることになる。

謙也は、ワイナリーを訪問し、シャンソン歌手に出会い、フランスを実感したことで、人生が大きく展開し、最後の仕事になるとは夢にも思わなかった。何かに引き寄せられ、迷わずに突き進んだことを感謝している。残りの人生を自分の好きなことに費やすと決めた謙也であった。

それは、猫の額のような土地に野菜や花を植え、慎ましく生きることである。人を蹴落としたり、人を乗り越えたりぜず、自分のできることを淡々とやり続ける喜ぶがわかり始めた謙也であった。妻の優子もそれが幸せだという。ストレスのない生活。それを探っている最中だ。テレビも新聞もない生活だが、スマホでお笑いを見ている。笑いの中に、人生がある。そんなことを思っている謙也であった。

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