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男には、忘れられない味がある。

謙也には、忘れられない味がある。大崎広小路駅の近くに中華屋があった。そこの中華屋のメニューに天津丼があった。その天津丼は、甘酢あんかけが絶妙に美味しかった。他の中華屋で天津丼をたのんで食べたが、甘さが足りなかったり、酸っぱすぎたりと謙也の舌にフィットしない。未だに、食べたい天津丼に巡り合っていない。

「牛丼が食べたくなった」と朝から大騒ぎをした謙也。「タクシー代、3千円払っても350円の吉野家の牛丼が食べたい」と駄々を捏ねて、家族から大笑いされた。吉野家は、246号線沿いの5キロ先にある。結局、朝の8時に家を出て、吉野家に向かった。朝食代わりに朝定食もあるので、混んでいる。運転手が立ち寄っていた。女のトラック運転手もいるのに驚きながら、店に入った。

駅の構内に「吉野家」はあるが、「狭くて、仕切りがあって、ブロイラーの鶏みたいで、餌をもらっているようで嫌い」だと優子は、家で食べた方がいいと頑として受けつけず、拒んだ。結局、遠くても広々とした店に行くことになる。

入ったら、再会を期待していたおばちゃん店員と中国人の女店員の二人ともいなかった。若い男性店員に「おばちゃんはいないの」と尋ねた。「りゅうさんですか?」「いや、おばちゃんの方」と聞いた。「何か、入院しているみたいです」「え、」「交通事故みたいです」と言われて、続きの言葉が出なかった。

おばちゃんが好きなわけではなく、昔から通ったので、懐かしいだけだった。車のある頃は、頻繁に来ていた吉野家。忘れもしない2003年に「牛丼一筋」の吉野家が牛丼販売を停止した。BSE(牛海綿状脳症)でアメリカ産牛肉の輸入が止まったからだ。衝撃の事件が起こった。豚丼が登場したが、流石に頻繁には食べる気がしなかった。

牛肉には大きくわけて牧草飼育のものと穀物飼育の2種類がある。オージーなどは、牧草を飼料として育っている一方、アメリカは穀物飼料である。その2つでは、味も臭いもまったく違うと言うのが吉野家の結論だった。

「どんなに時間がかかっても待つのみ」と牛丼再開を信じていたファンも多かった。謙也もその一人だった。忘れられない味の一つとなった。2006年9月再開まで実に4年の歳月が経っていた。それでも、吉野家の牛丼を待った。このことで吉野家の牛丼に新たな信用と伝説が生まれた。

牛丼専門店の意地と耐え抜く忍耐力は、業界だけでなく、会社の本来の意義や意味を問うたものだった。人気や流行で動かされる会社が多い中で、頑として方針を曲げない姿に感動した謙也であった。

その謙也が忘れない味がまだあった。新入社員の頃、先輩の大田黒課長が、横浜の明治創業の牛鍋屋の「新井屋」に連れて行ってくれた。そこで出された牛鍋は、すき焼き風だが、肉の質が格段に上級で美味しかった。二度と食べられない味だった。

ところが、横浜・曙町の「ARAIYA NEST(ネスト)」という店の存在を知った謙也は、早速、優子を連れて行った。新井屋の新業態の店だ。「ランチ牛鍋」が1,200円で食べられる。熱々の鉄板に白滝や豆腐、ネギ、そしてメインの牛肉がどっさりと盛られていて、お味噌汁とご飯はお代わりが自由でボリューム満点のランチだった。

「こんな美味しい牛肉はじめて食べたかも」と妻の優子も絶賛したほどだった。「牛丼とは、全く違う美味しさだよ」と謙也も先輩にご馳走になった思い出の味を堪能した。「まさか、生きている間に、牛鍋を食べられるなんて驚きだよ」「大袈裟ね」先輩の大田黒はすでに亡くなっている。そんなことを思い出しながら、この味を探していたと言う思いが謙也の目に涙を溜まらせたのだった。忘れられない味は、誰にでもある。もう一度食べたい味がある。

吾妻橋にあった肉料理だが、独特の味付けと独特の調理法で、サラリーマンを虜にした店は、名前も場所も分からない。取引先の社長に連れていてもらった店で、お金を自分で払っていないので、わからない。自腹で食べるのが記憶に残るものだと謙也は思った。価格が高いだけが思い出でなく、人との関わりも思い出となる。味のもつ、凄さはそこにありそうだ。


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