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意識が"自分"にばかり向いていないか

愚痴を言ったり言われたりすることが増えた。

これまでは
「如何に上手に聞くか」
「どうやって話して発散するか」
と愚痴そのものの扱い方について考えていた。

結局、思ったように解消されなかったり、むしろあしらわれたりして嫌な気持ちになることが多かった。
例えば共感してほしかったとき、助言をもらっても不愉快だった。

「別に頑張ってないわけじゃないし」
「私にしか見えていない景色があるのに」
「余計なお節介だなあ」

立場や境遇が変わると、見え方も苦労の種類も変わるものだ。


一方、愚痴ばかり言う人に会って思ったことがある。

「この人は"自分"にしか意識が向いていないな」
「自分で決めて切り拓いていけばいいのに」

そうして振り返ってみると、私もそうだ。

頑張っている"私"を認めてほしい。
これだけやっているのだから、報われて当然。
もう疲れたくない。責められたくない。

という具合に。

職場でも、弱音を吐いてしまうけれど、楽しく働いた方がお互い気持ち良い。

友達とも、ネガティブでその場を盛り下げるより、ポジティブな話で楽しんでほしい。

頭で分かっていたとして、なかなかできないものだけど。

意識が"相手"に向けば

この人も悪気があるわけじゃない。
きっと見えないところで悩んでるんだ。
何を私に求めているのだろう。

と考えるようになって、糸口が見つかるかもしれない。

実際、保護者のかたから気に触ることを言われたとき、その本当の意図="不安だった気持ち"を汲んで、話し合い解決したことがある。

練習が上手くいかない生徒さんに出会ったとき、どうすればこなせるか指示の仕方を変えたら上達したことがある。

そのなかで「ちょっと白熱しているな」「応えきれないな」というときは正直に申し出て、時には距離を置くことも致し方ない。
応え続けて依存させるのも、相手のために良くない。

愚痴の「聞き方」「言い方」というのも、社交術としては必要だと思う。
でも、言わなくて良いのなら言いたくない。
聞かなくて良いのなら聞きたくない。

愚痴をこぼしたくなったときは、意識が"自分"と"他人"のどちらに向いているか考えたい。

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