公園で(紅井りんご)
穏やかな初夏の昼下がり、わたしは図書館に隣接する小さな公園のベンチに腰をおろした。
小鳥たちがさえずり、滴るような新緑の匂いが鼻腔をくすぐる。そよ風に揺れる木々の隙間から降り注いだ木漏れ日が、足元で踊っていた。
公園には他に誰もいなかった。
読書がはかどる予感を抱きながら、今しがた借りた本を取り出そうとしたときだった。背後の植え込みからガサササと葉の擦れる音がして、反射的に目をやるとひとりの男が飛び出してきた。
男はマッチ棒のような貧相な体つきで、茶系の地味なポロシャツとスラックスを纏い、水泳用のゴーグルと水泳帽を装着していた。
関わってはいけない人物であることは瞬時に判断がついた。
けれどもあまりの恐怖で腰が抜けたようになり、その場から立ち去ることができない。そんなわたしの目の前に、男は無言で立った。まっすぐにこちらを見つめているのが、ゴーグル越しでもわかる。
永遠とも思えるほどの緊迫した数秒間を経て、男がすっとしゃがみこんだ。
急に具合でも悪くなったのだろうか。それとも土下座か? しかし男とはこれが初対面のはずで、何も謝罪される覚えはなかった。
男の目的が見えないぶん、不安ばかり募っていく。
そんなわたしの不安をよそに、男は地面に両手をつくと後方に足をぴんと伸ばした。まさか、その体勢は……。次の瞬間、男はものすごい勢いで腕立て伏せを始めた。まるで野鳥の求愛ダンスのように、一心不乱に腕立て伏せをしている。
「どういうことですか?」と訊ねたい衝動に駆られたが、現れてからひと言も発していない男とまともな会話が成立するとは思えなかった。
美しいフォームで軽々と腕立て伏せをこなしている男の体に、ほとんど筋肉が無いことが不気味だった。
わたしは相変わらず動くことができないでいた。
仕方がないので、視界を遮るように本を開いて顔を覆った。
一定のリズムで大胸筋をパンプアップする男の息づかいが耳に届く。
わたしはとにかく、開いたページの文字を追うことにした。
幸いわたしには過度に集中して読書をする癖があり、寝食を忘れて読み耽ることもめずらしくなかった。男の息づかいとわたしのページを捲る音が重なっていく。
いつの間にか男の息づかいも聞こえないほど、わたしは本の世界に引き込まれていた。
ひとりの少女の出会いと別れ。夢を叶えるまでのサクセスストーリー。人は誰かとの出会いで、こんなにも人生が変わってしまうものなのかと思い知らされた。誰かとの、出会い……。わたしはふと、目の前の男の存在を思い出した。
彼がもし、わたしの人生を大きく変える人物だとしたら!
あっという間に読了した浜崎あゆみの『M 愛すべき人がいて』を閉じると、もうそこに男の姿はなかった。
全てが幻だったかのように、元の穏やかな公園の景色があるだけだった。
初夏の陽気が見せた白昼夢だったのだろうか。わたしはたまに、妄想と現実の区別がつかなくなることがあった。
安堵の中にかすかな寂寥を感じつつ、わたしはおもむろに立ち上がった。
歩き出したところで何かを踏んだ感覚があり、見ると落ちていたゴーグルの上で木漏れ日が揺れていた。