弊(インターネットウミウシ)
「じゃあ全身から血が吹き出したりはしないんですね」
どこから仕入れた情報なのかわからないが、俺が「そうですね」と言うと御池なつみは、少しホッとしたようだ。
「弊(へい)は心霊とか、呪いとかそういう類のものじゃないんです」
御池なつみの部屋のリビングにヨガマットを2枚並べて敷き、500mlのペットボトルを2本ずつ置く。
首に巻いたタオルで顔の汗を拭う。室内の気温は32度。外気温は35度超えている。
しかし御池なつみは長袖を着て汗ひとつかいていない。
顔は真っ青で目も充血している。これは間違いなく弊だ。
「弊は菌みたいなものなんです」
「菌?」
「菌って人間の身体に常にくっついてるじゃないですか。菌が全く無いと不健康だし、あり過ぎると病気になる。弊も人間の中に住んで栄養をもらって生きています。人間も弊に心の負担になるものを食べてもらっているんです」
俺が話している間、御池なつみは何度も指をパチンパチンと鳴らしていた。
「指を鳴らすの、癖ですか?」
「えっ?今、鳴らしてましたか?」
「それ、弊です」
「これが……?」
御池なつみが自分の指を見つめる。
「やるつもりなんてないのに気付いたらやってることってありませんか?」
「はぁ」
「ほら、スーパーで買うつもりないものを買っちゃうこととか」
「あります!かんぴょう、気付いたら持ってます」
「それ、弊です」
「あ、あと!昨日もクイズ番組見てて、すずとアリスを間違えたんです。頭ではすずだと分かっていたのに、気付いたらアリスって答えちゃってて。あれも、弊の仕業ってことなんですね!」
「いや、それはただのうっかりだと思います」
御池なつみは少し残念そうにうつむいた。
もしかしたら弊の可能性もあるかもしれないが、なんでもかんでも結び付けてしまうのはよくない、と教わったからだ。
弊の定義は難しい。
やらなきゃいけないことがあるのになんとなく見始めたドラマの再放送を見続けてしまうのは弊だ。
あの人に好かれたい、相手にしてもらいたい、なのになぜか嫌がらせをしてしまう、それも弊だ。
エビドリアを頼んだはずが、なぜか盛岡冷麺を食べている。これは弊じゃない。多分注文の時点で何かを間違えている。
「弊は常にチャンスを探しています。出たがりなんです」
弊は誰の中にもいる。弊を忌み嫌う人もいるが、身体から出すことはできない。
弊を取り除くということは、心も丸ごと失うことになる。弊と共存すること。それが大切なのだ。
弊は人とともに育つ。喜怒哀楽のどこに入れたら良いかわからない感情を得れば得るほど大きくなっていく。そうすると弊が出てくる機会も増える。だけど、その代わり分別もつく。
むしろ幼少期に他者とのつながりが浅かったり、あまり感性が揺れ動くような体験が出来ていないと、弊が育たなくなる。考え方が幼いまま大きくなった弊は抑えが効かない。そうなると厄介なのだ。
御池なつみはわかったような、わかっていないような、曖昧な相槌を打っている。
ふと、ベランダの方を見るとカーテンの向こうで何かが揺れているのが見える。
「今日洗濯ってしました?」
「はい。今外に干してます」
「多分、これからひと雨来るんで取り込んでください。すぐ止むとは思うんですけど」
御池なつみは小走りでベランダに行った。
窓を開けた時、生温く重たい風が一瞬入ってきた。
やっぱ降るな、そう思った時にポツ、ポツ、と雨粒が窓を叩きはじめた。
弊に形はない。ただ水とすごく相性が良い。
強い弊を抑えようとすると必ず雨が降る。
「服装はこのままで大丈夫ですか?」
「このまま、っていうのは?」
「いや、なんか白装束みたいなのとか着た方が良いのかなって」
「あ、いや、そういうのよりはもっと汚れてもいい服装?とかの方がいいです。すんごい汗かくので」
「汗、かくんですか」
「はい。なるべく動きやすい格好で、お願いします」
御池なつみは、取り込んだ洗濯物の中からジャージとTシャツを取って、寝室に行った。
俺は部屋の電気を全て点け、ヨガマットのそばに置いたペットボトルの蓋を開ける。
そして壁掛け時計を外して裏返しにした。
着替えを終えた御池なつみを1枚のヨガマットに座らせる。
俺はその隣のヨガマットの上で中腰になる。
「じゃあ、始めます。」
「は、はい」
「俺と同じ動きをしてください。完全に同じじゃなくてもいいので。それでもし身体が勝手に違う動きをし始めたら、身を任せてください。危なくなったら止めるんで、思いっ切りやっちゃってください」
「わかりました」
ふと、思い立った。
「そうだ、何か音楽をかけてもらえませんか?」
「は、はい。どんなのが良いんですか?」
「なんでもいいんですけど、そんなに暗い雰囲気じゃないやつで」
「わかりました」
御池なつみがそばにあったスマートフォンを手に取る。
「Hey,Siri、楽しい曲流して」
あ、この人ちゃんと「Hey,Siri」って言うんだ。
Siriは「わかりました」と言うと、なんだかのんびりとしたイントロが流れ始めた。
あれ、これなんだっけ。絶対聞いたことあるけどタイトルが出てこない。
ま、これでいいか。
弊は除霊みたいな感じで取り除くことはできない。
出てこようとする弊をギリギリまで好きにさせる。
そして、出るか出ないかの限界のところを見極めて抑え込むのだ。
業界では「抑弊(よくへい)」なんて呼ばれているけど、いまだになんかしっくり来ない。
御池なつみは中腰のまま俺を見ている。
俺がゆっくり左右に揺れ始めると、その動きを真似て揺れる。
イントロが終わって歌が始まる。甘い男性ボーカルだ。
あ、思い出した。これ20年くらい前の曲だ。当時大ヒットを飛ばしまくっていたプロデューサーと人気絶頂のお笑い芸人が組んだやつ。
正直音楽はあっても無くてもいいのだが、なんだか必要な気がした。
横の動きが終わったので、次は縦に動く。ここからが少しきつくなる。
御池なつみは俺と同じテンポで座って立ってを繰り返している。
まだ汗は出ない。しかしペットボトルに入った水の色が赤くなり始めている。
弊は確実に、動き始めている。
なるべく音楽に合わせて腕や足を伸ばしていく。
「B・U・S・A・I・K・U」の声とともに音楽が次第に盛り上がってくる。
弊も興奮し始めたのか、御池なつみが「B・U・S・A・I・K・U」と大声で言い始めた。
もはや俺の動きを真似していない。
雨音は激しさを増し、雷鳴とともに窓の外がピカッと光る。かなり近い。
御池なつみは頭を振り始めた。いい感じだ。
しかしサビの「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」の声で、弊が呼ばれたと勘違いしたらしく、御池なつみが飛び跳ね始めた。
真っ赤に染まったペットボトルの水が溢れていく。
家中の電気が激しく点滅を始めた。
机や椅子がカタカタと揺れている。
あれ、ちょっとヤバイかも。
一方の御池なつみは「がっかりさせない期待に答えて素敵で楽しいいつものオイラを捨てるよ」と叫んでいる。そこ、完璧に歌えるんだ。
止めた方が良いかもしれない、と思ったが御池なつみの額から一粒、汗が流れた。
よし、いける。
俺が抑えの動きに入ろうと思った時、突然御池なつみが俺の手を掴んだ。
御池なつみは苦しいような、笑っているような顔で飛び跳ねながら必死に歌っている。
自分の力で抑え込んでいる。
この人は、強い人だ。
なぜだか俺も歌いたくなり、気づいたら一緒に飛び跳ねていた。
御池なつみの髪が濡れている。腕で顔を拭って、歌い続けている。汗か涙かわからない。
相方の語りと共に曲がフェードアウトしていく。
カーテンの隙間から日差しが差し込んでくる。
御池なつみは荒い息遣いで、呆然としている。
リビングの現場復帰をして、先輩に『抑弊、終わりました。』とLINEを送ると、柴犬が親指を立てて「グッジョブ!」と言っているスタンプが届いた。
アパートを出ると、疲れがどっと出た。
タクシーで帰ろうかなと思ったが駅まで歩くことにした。
普段は電車に乗らない。久しぶりだ。
途中のコンビニで、発泡酒を買った。
普段お酒は全然飲まないのだが、今日はなぜだか欲している。
一口目をグイッと飲むと、心地よい苦味が口の中に広がっていく。
やっぱ美味しくないな、なんでこれ買ったんだろ、と少し後悔した。
電車に乗ると、周囲の乗客が怪訝な顔で俺を見てくる。
そりゃそうだ。こんな時期に、マスクを外して車内で発泡酒を飲んでいるのだから。
でもいいや、と思った。今日は特に疲れたから。
車窓から住宅街の夕焼けと大きな積乱雲が見える。
電車がトンネルに入っていき、景色はなくなった。
発泡酒をもう一口飲む。
御池なつみさん、しばらくは筋肉痛になるかもだけど、まぁ大丈夫かな。だけど久々だったなぁ、あんなに大きな弊は。ずっと自分なりに抑え込んできたんだろうな。そういえば最近、俺も弊に会ってないなぁ、と思った時、背筋が急に冷えた。
抑弊に必要のない音楽をかける、踊らなくていいのに踊る、普段は乗らない電車に乗る、コンビニで飲みたくもない発泡酒を買って飲む。
俺も、やってる。
自分で言った言葉を思い出す。
「弊は常にチャンスを探しています。出たがりなんです」
窓に映る自分の顔を見た。
目が充血し、顔が真っ青になっている。
電車がトンネルを抜けると、空は真っ暗になっていた。
大きな雨粒がひとつ、窓に弾けた。
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