夜の横断歩道で(紀野珍)
落ちたら死ぬの。スカートを翻し、真夜中の横断歩道を跳ね渡る。(小夜子)——書き出し小説大賞・第45回秀作(https://dailyportalz.jp/kiji/140331163702)
煌々とヘッドライトを灯した自動車が目の前を駆け抜ける。その距離が思ったより近くてよろめいた。
それで気付いた。水たまりに踏み込んだような感触があった。
少女は足もとに視線を落とす。
横断歩道の白線からはみ出した右足のつま先。そこを中心に波紋が広がっていた。
不思議な光景だった。波のリングは乾いたアスファルトの表面に生じていた。街灯に淡く照らされた舗装路がなめらかに波立っている——ように見えた。
少女は白線に載ったかかとを支点にパンプスのつま先を上下させ、靴底を路面におろす。ぴたん。水を叩いたような音がし、同心円のさざ波が生まれる。
波紋は黒灰色の路面上をつーっと走り、隣の白線——引かれたばかりでくっきりと濃い——に当たると消える。その様子を少女は見つめていた。
少女はしゃがみ、右の掌をそっと路面に付け、沈める。手首までが路面の下に隠れて見えなくなる。温い。今日はずっと天気がよかったから、と思う。浴槽のお湯をかき混ぜるように手を動かす。ただの水よりは重たいような気がするが、よく分からない。
手を引き抜いて街灯にかざす。まったく濡れていない。
かがんだまま、パンプスとソックスを両足とも脱ぐ。パンプスは白線の上に揃えて置き、ソックスはひとつにまとめてワンピースのポケットにつっこんだ。
スカートを敷くようにして腰をおろす。すっかり凪いだ路面に、まずは右、ついで左と足を差し入れる。
膝から下がじんわりと温められ、意図せず長い溜息が洩れる。ふくらはぎが適度に圧迫される感覚も快い。
しあわせな気分になり、宙を駆けるように両足を動かす。路面は大きくたおやかに、音もなく波打つ。
不意に風が起こる。少女は目をつむる。いくらか汗ばんだのか——日中の暑気もまだ残っていた——、頬やむき出しの腕が冷やされて気持ちいい。
ああ、眠ってしまいそう。
両足を浸した路面がかすかに揺らぐのを感じ、本当にうとうとしかけていた少女は瞼を持ち上げる。
視界の端に、光。
光のほうへ顔を向ける。横断歩道のすぐ側に、黄白色の円盤が浮かんでいた。
月だ。直感でそう思った。
雲が流されて月が顔を出したのだろう。濡れてもいない舗装路に月が映るのは変なんだけど。
少女は立ち上がり、慎重に白線を渡って光のもとへ近付く。
路上の月を見下ろす。大きい。マンホールくらいありそうだ。そして、それ自体が光を発しているかのようにまぶしい。
載れそう、と思ったつぎの瞬間には、白線を蹴って飛び移っていた。
少しも傾ぐことなく、月は少女を受け止める。辺縁から拡散していく幾重もの波紋が、月明かりを反射してとても綺麗だった。
裸足のかかとで月を打つ。とん。波が立つ。まん丸に輝くお盆はそれこそマンホールのようにどっしりと安定していたが、やはり路面に浮いているのだと分かる。
少女は足踏みしながら月の上でくるくる回る。黄金色の輪が広がっては消え、広がっては消える。
波紋を追っていた目がふと、白線を捉える。遠慮がちに並んだひと組の履き物。さっきまでいた横断歩道が遠ざかっている。いや、移動しているのはこっちか。
それはそうだ。少女は納得する。天のお月さまはたえず動いてるわけだし。
一瞬、路面に飛び込んでみようとも思ったが、やめた。落ちたらきっと、なにもできずに沈んでしまう。
まあいいや。また横断歩道にぶつかるまで、このまま運ばれよう。
少女はそろそろと屈み、膝を抱える格好で月に腰掛ける。
お月さま、どこへでも連れてってくださいな。
ふたたび目を閉じる。
直後、月が路面から離れて浮き上がったような気がしたが、少女は身じろぎもせず、ただわずかに口許をほころばせる。