犬のいる暮らし(紀野珍)

 犬の顔が目の前にあった。ぎゅっとまばたきをしても、まだあった。
 犬はわたしの瞼や眉間に鼻を近付け、ふすふすと匂いを嗅いでいる。鼻息と硬い髭が肌をくすぐる。これをやられると、どんなにぐっすり寝ていてもかならず目が覚める。
 はいはい、おはようと声を掛け、犬の後頭部を指で掻いてやる。ふるるるるる、と犬は喉を鳴らす。
 元カレが登場する夢を見ていたが、もう内容は思い出せない。どちらかというと、しあわせな夢だったような気がする。
 上半身を起こし、両手を天井に向けて思い切り伸ばす。んんん、と声が漏れた。犬もシーツに前脚の爪を立て、尻をめいっぱい後方に突き出して背を反らす。尻尾がぴんと立っている。
 枕元のスマホを手に取り、待ち受け画面で時間を確認する。寝すぎた。
 ベッドから乗り出して床に置いてあるiQOSを煙草の箱とともに拾い上げ、本体にスティックを差し込む。犬が腰のあたりに頭を擦り付けてくる。ごはんを催促しているのだ。ちょっと待ってねと頭を撫でつつ、熱されたスティックを喫う。メンソールが口中を冷やし、何かの薬液で煮詰められたようなベリーの重たい芳香があたりにたゆたう。犬を飼い始めてから煙草は換気扇の下でしか喫わなかったのだが、すぐに煩わしくなって加熱式煙草にした。
 犬は欠伸をし、後脚で耳の付け根を掻く。首輪に付いた鈴が、脚の動きに合わせてチャリチャリと音を立てる。カーテンの隙間から差し込む陽が、ゆったりと舞う和毛を浮かび上がらせる。
 一本喫い終えてベッドをおり、足にまとわりつく犬を従えてキッチンへ向かう。空っぽの餌皿にドライフードを入れる。小匙三杯。水も替えた。
 かりかりと餌を食む音を聞きながらリビングに戻り、エアコンを点ける。今日も暑くなりそうだ。
 ベッドに寝そべり、スマホを開く。LINEが何通か届いていた。ざっと目を通し、返事が必要なものには返事を書く。保留は一通。バイトの同僚のメッセージで、彼氏の行状を子細にレポートしたのち破局の危機を訴えるという、いつもの内容だ。今回もやたらと長く、読むだけでぐったりした。求められているのは当たり障りのない相槌だと分かっているが、それが難しい。既読を付けたからには返信しなければならないが——。
 犬がキッチンから戻ってきた。うっとりした表情で、さかんに舌なめずりをしている。カーペットの上に腰を落ち着け、毛繕いを始める。空いた前脚に巻きつく尻尾は長く、先端が少し折れている。このカギ尻尾は海外の愛好家に人気があると、何かで読んだ。カギが幸福を引っ掛けてきてくれるとかなんとか。そういえば、三毛柄も向こうではめずらしいんだっけと、三色に分けられた小さな頭を眺めながら思う。
 チ、チ、と舌を鳴らすと犬は毛繕いを中断し、こちらを見る。仰向けになってお腹をぽんぽんと叩き、おいで、と言う。犬は、待ってましたという反応で駆けてき、軽やかにお腹に飛び乗る。胃を押されて苦しかったので、少し位置をずらし、顎の下を撫でてやる。犬は目を細め、胸の間を両前脚で交互に揉みだす。しばらくそうしたあと、前脚を身体の下にたたみ入れて座り込む。
 犬の頭を優しくさすりながら、片手でスマホを操作し、ネットニュースやSNSをチェックする。犬の寝顔に誘われたのか、すぐに瞼が重くなり、どうせ犬に載られているうちは動けないのだからと、両手をおろして目をつぶる。

 お腹にぐっと力がかかり、まどろみが解ける。犬が上体を起こしてカーテンのほうを見ている。瞳孔がまん丸だ。窓の外に何かの気配を感じたらしい。
 お出かけする? と訊くと、犬はこちらを向き、なあ、と鳴く。
 犬を持ち上げて脇におろし、カーテン、窓、網戸と開けていく。まだ午前中だが盛夏の陽射しは強烈で、腕の産毛がちりちりと焦げて丸まるような感覚にとらわれる。
 犬が窓台に跳び上がる。見ると、前脚はすでに消えていて、両の肩から腰にかけてがこんもりと膨らんでいる。
 晩ごはんまでには帰っておいでよ、と背中をひと撫ですると、犬は眩しそうに目を細め、なっ、と鳴いた直後、翼を広げて窓の外へ飛び立った。
 犬は滑空して電線の下をくぐり、羽ばたきながらどんどん高度を上げ、点となり、やがて見えなくなる。

 さて、わたしは何をしようかな、天気がいいし洗濯でもするか。そう考えて窓を閉じたとき、ぐう、とお腹が鳴った。


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