ガラスに刃を当て引いてみる(井沢)
ある朝、町中のガラスが真っ白く濁った。
寝ぼけたまま開けた窓はこの時季には珍しく結露しており、まだ寝ているであろう2階のみゆきの部屋の窓も梅雨空を映して白んでいた。
みゆきと私は隣に住んでいる。中学になっても相変わらず一緒に登校しているが、彼女曰く「毎朝玄関前で呼ばれると急かされてるようだし実際親にも急かされる」とのことで、角の農協の駐車場で待ち合わせている。その農協が今朝は白い。赤茶色の煉瓦に囲まれたガラスが新装開店前の養生みたいに白い。いや、ガラス自体が白く濁っている。窓際の金魚の貯金箱もポスターも見えない。そこへみゆきが来た。
「おいーす」
「ういー」
「え?なに改装中?」
「なんか来たら白かった」
合流するように歩き始める。進むにつれ町の様子がおかしいことが分かってきた。床屋のパンチパーマのイラストが見えない。米屋の品種の立て札も米袋も見えない。大人3人がエンジンのかかったごみ収集車の白いフロントガラスにヤカンでお湯を注いで何か言っている。白く並んだ小学校の窓枠は感想文をを書く前の原稿用紙みたいだった。たまに開いた窓から嬌声が聞こえてほっとする。
「霧ってわけでもないよね」
「そんで全然車通んなくない?」
「ゴーストタウン感」
「人はいるじゃん」
「みんなゾンビになってたりして」
「そう言えばゾンビの目って白く濁ってるなあ。あれ腐ってるの?」
「えー分かんない。水虫みたいなもんじゃない?」
「水虫」
歩き進めて神社脇の急な坂道を上り、木々の間を抜けていくと校舎が見えてきた。昇降口で上履きに履き変えて廊下を進む。窓のある廊下の左側は真っ白でつやつやできれいなんだけど息苦しく、開いている窓から日陰の緑が見えるとほっとした。スタジオで制服で撮影するとこんな感じなのかな、女優ライトってこういう効果があるのかも、なんて思って隣のみゆきを見る。
「何?」
何だかいつもより解像度高くない?後れ毛なのか産毛なのかどっちなんだその毛は。制服のリボンのへたり具合やスカートのてかり、伸びたプリーツ。学園ドラマではこんなへたった制服誰も着てない。もっとこう、アイロンがかかっている。
「や、なんでもない」
タイミングを逃すと笑いにできない。
遅れて担任がやって来てホームルームが始まった。先生は朝から車のフロントガラスが曇ったままなので電車で来ようとしたが電車も視界不良とのことで動いておらず、本当はダメだが原付で来たそうだ。そう言われると登校中、国道に差し掛かったときも車通りが全くなかったな。当然担任の来ていないクラスもある。一限目はなかなか始まらなかった。ニュースではガラスは日本中で濁っているということだった。ほとんど叫んでいるレポーターの声と一緒にヘリから撮られた高層ビル群や都庁が映されている。あ、ヘリのガラスは曇ってないんだ、と思った。ビルのガラスは空の青を映さず白く沈黙している。東京スカイツリーの展望室内からの中継は、右上に「スカイツリーから中継」と書いてなければどこで撮影しているのか全く分からない。首都高に車はおらず、自宅の駐車場でヤカンの湯をフロントガラスにかける夫婦にインタビューしている。…という一連のニュースを見てるスマホは見えてるし、職員室のテレビも見えているってことは、液晶なんかは濁らないようだ。「ガラス」の区分とかアクリルとの違いとかよく分からない。先生の眼鏡も曇っていない。先輩女子のカラコンもいつも通り。
授業は二限目からいつも通り窓を開けて行われた。
「今日部活?」
後ろのドア付近でみゆきが声を張る。
「んーん、帰る」
二人重ならないように階段を降りる。踊り場のステンドグラスは曇ることなく鮮やかな色を保っている。
「ガラスってさ、桜みたいにクローンだったりするの?」
「え、遺伝子とかあるの?」
「さあ」
「でもガラスは液体って聞いたことある」
「なにそれ」
「ガラスって液体だから、ハサミで切れるんだって」
「液体ってハサミで切れるっけ」
「さあ」
「水がさ、水道から出てきてるのハサミで切れたらかっこよくない?漫画っぽくて」
その断面って平らなのかな、切られてシンクに落ちるガラスが勢いよく砕ける姿を想像していた。
その夜、お風呂の窓ガラスはもともと曇ってるなと思いながら、みゆきの部屋に面した窓にそっとカッターの刃を当てた。とくに何も起こらなかった。
ガラスは2日ほどで透明に戻った。