後藤さん(もんぜん)

「あれ、32ページがないよ!」
 誰かが叫んだ。部屋を見渡すと、こぼしたドーナツのカスを拾っている人、なくした台本を探す人、腕立て伏せをしている人、稽古場はいつだってカオスである。そんな中、後藤さんだけは正座して目を閉じていた。三角定規のように背筋をぴんっとしている。大御所の風情である。あきらかに異質だ。

 後藤さんはテレビ、映画、舞台で活躍していて、カメレオン俳優として業界内の評価も高く、うちのような弱小劇団に出演するような人ではなかった。それがなぜか偶然うちの公演を見てくれて、偶然気に入ってくれて、是非次の公演に出させてほしいと言われた。断る勇気などなかった。
 しかし稽古が進むにつれて、断らなかったことを後悔するようになった。なぜなら、うちの劇団は会社員をやりながら趣味で演劇をやっている人間がほとんどで、稽古を急に休んだり、セリフをほとんど覚えてこなかったり、共演者を口説くことしか考えていなかったりする。後藤さんとは意識が違いすぎた。いつかブチギレられるに違いない。その日が来るのが怖かった。

 ある日の稽古終わり、ついに後藤さんに声をかけられた。
「話があるのですが」
 真剣な表情である。Xデーがきた。他のメンバーに別れを告げて、二人で近くの喫茶店に向かった。
 その喫茶店は昭和レトロを売りにしていて、インベーダーゲームがテーブルになっていた。店内には客はおらず、マスターがコップを拭いている。
 わたしたちは窓際の席に座った。窓越しに会社帰りのサラリーマンがちらほらと見えた。みんな世の中を恨んでいるような人たちに見える。喫茶店の窓から見る外の世界はいつも退廃的に思えて仕方ない。どうしてだろう。
 
 コーヒーを頼んで、後藤さんの顔を見た。彼はわたしの書いた台本をカバンからドンと出した。わたしは何度も改稿するスタイルのため、ボツ台本がどんどん増えていく。後藤さんは過去の台本も取っておくタイプの人らしい。
 後藤さんは周りをキョロキョロと見渡したのち、わたしに顔を近づけた。内緒話を始める雰囲気である。後藤さんは小声で話し始めた。
「この田中という役なんですけど、恋愛経験が少ないという設定じゃないですか」
「はい」
「ただ残念ながら、わたしは恋愛経験が豊富でして、気持ちがわからないんです」
「はあ」
「だから役作りのために」
「なんですか?」
「オナニーを我慢していまして」
「そうなんですね……え?」
 この人、今、何を言った? マスターが手を止めて、こっちを見ている。
「ですから、今、オナニーを我慢していまして」
「そ、それは、どうして」
「きっと田中は異性のちょっとしたことに反応してしまう人だと思うんです。その感覚を理解するために我慢してみようかと」
「理解できましたか?」
「理解しすぎたと言いますか、それがその、最近女性が目の前を通るたびに反応してしまって」
「反応?」
「勃起してしまうんです」
 バカなのか、この人は。
「どうしたらいいと思いますか?」
「それをわたしに聞きますか?」
「だって作演出じゃないですか」
「じゃあ、オナニーをしてください」
「せっかく役がつかめそうなのに」
「だったら、オナニーをもう少し我慢してください」
「もう我慢の限界です」
 他人のオナニー事情など知りたくもなかった。正直、稽古当初から後藤さんのうまさは圧倒的であった。多分どんな役作りをしたってクオリティは変わらない。
 そう思ったが本人が真剣なので「どうでもいい」とは言えず、議論は深夜まで続いた。途中マスターも議論に参加してきて、最終的に多数決で「もう少しオナニーを我慢する」ことに決まった。
 わたしは疲労しきった状態で喫茶店から出た。空を見上げると満天の星空だった。

 その日からわたしは、稽古で後藤さんが勃起しているかどうか気になって仕方がなくなった。勃起していたときはさりげなく休憩を入れたりした。他のメンバーに知られたら、どんな騒ぎになるかわからない。後藤さんの勃起で頭がいっぱいの毎日を過ごした。
 そんなこんなで演出に集中できず、不安を抱えたまま本番に突入した。
 
 本番の後藤さんの演技は最高だった。はじめて自分の書いた台本で泣いた。劇全体の評判も上々だった。すっかりわたしは後藤さんのファンになっていた。なんなんだ、この人は。
 ちなみに本番二日目から後藤さんは勃起しなくなった。そのことにわたしは気がついていたが、何も言わなかった。

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