アット・ザ・ドライブイン(哲ロマ)

予期せぬ左ウィンカーに助手席の私は「も?」というあまりクエスチョンマークの付かない文字を発した。

ドライブイン
そば・うどん・カレーライス・ラーメン・カツ丼

この看板はピカピカの新品だった事なんてあるのだろうか、最初から薄汚れて剥げかけて割れていたのではなかろうか、これがピカピカで色もハッキリと濃く、触るときゅきゅっとしていた状態がまったく想像出来ない。

「トイレ?」

ハンドルを持ったまま真っ直ぐ前を向いてブレーキを踏んでいる夫に声をかけるが返事が無い。なんか言うだろ普通。怖い。なんだ、離婚か、切り出すのか、温泉旅館へ向かう途中で、ドライブインの駐車場で、切り出すのか。
返事が無いまま夫は自動車教習所の初期段階生徒の様に、丁寧にサイドブレーキを引き、エンジンを切り、ようやく口を開いた。

「お昼ごはんにしよう」
「え」

離婚しよう、ではなかったが驚いて聞き返した。

「お昼ごはんにしよう」
「え」
「お昼、ごはん」
「え」
「食べよう、お昼ご飯を」
「え、倒置法」

時間帯的にも場所的にも特におかしな発言ではないのだが四度も聞き返したのには訳がある。

久しぶりにまとまった休みが取れて、たまには温泉にでも行こうと、大した計画も立てなかったし宿も2、3日前に慌てて探して予約をした。
その小旅行の、たぶん私は一番テンションが高まっている旅館にチェックインする前のこの車移動の、お昼ごはん。
高速道路を降りてしばらく山道を走るこのルートの途中に、何を好き好んで作ったのかイタリアンの店があると偶然知ったのは昨日の夜のテレビ番組。店主に密着した番組だった。
その偶然に夫婦で盛り上がったではないか。パスタが美味そうだと言っていたではないか。ランチはここで決まりだと、昨日二人でテレビを見ながら言ったではないか。

「イタリアンでは?」
「大丈夫」
「何が」
「予約はしてないから大丈夫」
「違うそうじゃない」

食い気味に名曲のタイトルを発してしまったが、ここでその事に自ら触れて笑ってしまってはダメだと、一度夫の方から顔を背けて笑いを堪えた。

「ここで食べよう」

名曲タイトルには触れもせず夫は言った。

「なんでよ」
「ここを逃したらもう無い」
「イタリアンがあるよ」
「無い」
「イタリアンあるから」
「ドライブインは無い」
「イタリアンがあるから」
「イタリアンは人気があるしこれからもきっと続いていく、ここはもう、こんな所はもう、きっと無くなる」
「でしょうね」
「さっきから何軒も廃墟になってるドライブインを見かけた」
「あったね、ちらほらあった」

確かに薄汚れてロープが張ってあるドライブインの廃墟を何軒か見かけた。ここも看板だけかと思っていたら開いていて驚いたし、ごはんを食べようと言われてさらに驚いている。

「ここ開いてる」
「開いてるね」
「開いてるから食べよう」
「いや、違う、そ」
「ここを逃したらドライブインのそばだってドライブインのうどんだってドライブインのカレーだってラーメンだってカツ丼だって二度と食べられないかもしれない、食べたい」

畳み掛けて来た。私がまた発しかけた名曲タイトルを遮って畳み掛けて来た。今年も海に行くっていっぱい映画も観るって的に畳み掛けて来た。何なんだ。

「なんでそこまでドライブインのごはんが食べたいの?」

なんでそこまでドライブインのごはんが食べたいの?と私は言った。言うしかないから。

「たぶん、不味い」

へーそうなんだー。

「小さい頃、滅多に遊びになんか連れてってくれない親父が気まぐれに家族みんなをドライブに連れてってくれる事がたまにあった」

それ似てますねあなた。血ですね。

「そういう時に決まってドライブインで昼ごはんを食べた」

血なのかやっぱり。でも嫌だ。イタリアンに行きたい。

「毎回親父、なんにも言わないでさ、いきなりウィンカー出したと思ったらハンドル切って入って行くんだよね」

何ちょっと笑いながら呆れながら言ってんだよ、おめー今それを私にやってんだよ、イタリアン行けよ早く。

「お袋と姉ちゃんはすごく嫌そうだった」

お義母様お義姉様と今すぐイタリアンで女子会を開きたい。

「親父が連れてってくれるドライブインは、タバコの匂いがした」

宇多田ヒカルかよ。

「煙もすごくて、うどんはクタクタで、カツ丼の卵はカッチカチに火が通っていて、カレーはおそらく業務用あっためただけのやつで、あと、何注文しても全部甘じょっぱ過ぎて喉が渇いてさ、あ、そばもね、そばももちろんクタクタでさ」

プレゼン大失敗してますけど大丈夫ですか。是が非でも食べたくねーわ。アマ・ジョッパス・ギテって一瞬何言ってんのか分かんなかったわ。

「要するに思い出の味ってこと?」
「いや、べつにそんな思い出って、程じゃないけど」
「でも食べたい、と」
「食べたい」
「私はパスタが食べたい」
「ナポリタンならあるかもしれない」
「違うそうじゃない」

もう多分あの名曲ドライブインの駐車場で出来たのだと思う。

「帰りに、イタリアン行こう」

まあ、妥協点はそれだろうと私も思ってはいた。帰りは帰りでせっかくだし別ルートで別の寄り道をしたかったし、私もそこまであのイタリアンに行きたいという強い想いも実はない。ないけどあのお洒落なイタリアンがこのドライブインに負けるという事例を作ってはいけない気がする。帰りにイタリアンに行ってドローだ。ドローかな。まあでももう良いや、流石にお腹も空いてきたし。

「分かったよ、良いよ、食べようお昼ごはん」
「ありがとう」

この人こんなに素直にありがとうを言えるんだ。

半笑いで車を降りて、半笑いでドライブインの外観を眺め、半笑いで歩き、ガタガタと少し開きづらそうな入口のドアを半笑いで夫が開けた。きもち悪い。

「いらっしゃいませー!」

元気な声が聞こえた。明るい。物理的にも雰囲気的にも明るい。そして綺麗だ。もちろん建物は古くて年季が入っているのだけど、とても清潔感があって綺麗だ。だいぶ想像と違っている。

「タバコのflavorしないね」

もちろんふざけて大袈裟な発音で言ったのだが夫の反応は無い。困惑している。なんだこの顔は、すごく困惑している。さっきまできもち悪い半笑いだったのに困惑している。

「大丈夫よ、まだ席空いてるから!まだ並ばなくて平気!こちらどうぞー!」

元気の良い女性の店員さんは夫の困惑面を察したのかニコニコと笑顔で私達に声を掛け、透明なビニールのテーブルクロスが敷いてある懐かしいテーブルにお冷を二つ置き、ドーナツ状に真ん中が丸く空いている懐かしい背もたれの無い椅子を引いて案内してくれた。
私はもう気付いている。夫も多分気付いている。壁一面にサイン色紙が飾ってある。ここ、人気店だ。
私は椅子に座ってすぐにスマートフォンで店を調べた。

「すごい、すごく話題の店だよここ」
「え」
「カツ丼やばいんだって、わ、すごい、美味しそう」
「え」
「すごい、コレを食べずに死ねない全国絶品どんぶり10選に入ってる」
「え」

カツ丼一択だ。ミーハーな私は嬉しくなってあちこち写真を撮ったりサイン色紙を見に行ったりした。夫はもう困惑を通り越して泣きそうになっていたが、私が押し切る形で同じくカツ丼を注文させた。

「あ、すごい、満席だ、ホントに並び始めた、すごいね奇跡だよ、すごいタイミングだったんだ」

返事が無い。表情が消えている。もう流石に観念したのか夫は表情が消え、そして何故か姿勢が良い。怖い。
無表情で姿勢良く椅子に座る駅前の広場に置いてある意味不明な銅像みたいな夫に語りかける事を諦めた私は、星がたくさん付いた絶賛ばかりの口コミを読みながらカツ丼への期待を膨らませた。

「あ、お蕎麦も美味しそうだ、うどんも」
「あ、カレーも、カツカレーも有名なんだ」
「わー、これはすごいな、カツ煮ラーメン、これは流石にどうなんだろ、でもすごい、絶賛だ、へー」

一人盛り上がる私に相槌すら打たず、考えることをやめた銅像は一度お冷やを飲む時だけ動いた。ような気がする。

「はーいお待たせしましたー、カツ丼二つね、旦那さん大盛りじゃなくて良かったのー?はい、二つね、あ、奥さん写真撮るの待っててね、丼の蓋ね、30秒、おいしくなーれーっておまじないかけてから開けてね、そうすると卵がちょうどよくふわふわトロトロになるから、おまじないしてねー、ごゆっくりどうぞー」

こんなに混み合っているお店なのに大したものだ。笑顔で元気よく、楽しそうに働いている。おまじないの説明までしてくれた。私はドキドキしながら30秒、おいしくなーれーのおまじないをしてから蓋を開けた。
ふわふわ、トロトロの卵、ほのかに甘く良い匂い。知ってる。こういう美味しそうな食べ物になんと表現して良いのか困った時は「宝石箱」を使えば良い。これは宝石箱だ。
私は宝石箱を色んな角度から写真に撮ってスマートフォンを置き、夫を見た。まだ表情が無いまま姿勢良く座っている。蓋も開けていない。

「カッチカチに、なれ」
「おまじない違うよ」
「カッチカチに」
「ならないよ、失礼か」

美味しい。ふわふわトロトロの卵の下に蒸されたはずのカツは、どうやったらこうなるのか、まだサクサクの食感を残していて、ほのかに甘く、そして土地柄なのか、お米が良いのか、ご飯がとても美味しい。コレを食べずに死ねない全国絶品どんぶり10選に選ばれるのも頷ける。

「美味しい」
「うん」
「美味しいね」
「うん」

美味しいものを求めて結果不味かった時の人間のリアクションならこれまでの人生で何度か見ているし、私自身も体験した事があるけど、不味いものを求めて結果美味しかった人間のリアクションは初めて見る。困惑から無表情、そして今夫は、絶品カツ丼を食べながら喜怒哀楽の全てが混ざった、なんと表現して良いのか困る顔をしている。宝石箱だ。

「どうもねー!ありがとうございましたー!お気をつけて!また来てねー!」

私達が食べ終えて店を出る頃にはもう店内で待つ人達の列が外まで伸びて、さらに外の駐車場は満車に近く、車を誘導する係の人が3人も居た。

「すごいとこ当てたね」
「そうだね」
「食べようと思っても食べれないとこだよここ」
「そうだね」
「満車だよ、入れなくて道路に車並んでるもん」
「そうだね」
「もう良いんじゃない?お店出たし誰も居ないし、心の声を、吐き出して下さい、どうぞ」

駐車場を歩き、車まで辿り着いた夫はもう一度建物に向き直し、指を差して軽く叫んだ。

「違う、そうじゃない」

私はその姿を別に見る事なくドライブインの看板を写真に撮りながら笑った。

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