ただ夜を走る(哲ロマ)
帰宅する。
今日もなかなかハードな一日だった。靴を脱ぎ鞄を降ろし、ふと時計に目をやる。迷ってはいない、答えは決めていた。迷っているフリをしただけだ。
やれやれ、疲れたんじゃないのか、お前もしかして、やるつもりかい
もう一人の自分が呆れて僕に語りかけるのを無視して支度を始める。簡単なストレッチをして、いつものウェアに袖を通し、いつものシューズを履き、さっき開けて入ったばかりのドアから、外に出た。
やれやれ、あんなにハードな仕事をこなして、お前走るのか、まったく物好きな男だ
走る。何故だろう僕は走る。冷蔵庫にビールが冷えているのは知っているが、そんな誘惑にはまったく興味がない。とにかく身体が走りたがっている。家の前の道に立ち、アキレス腱を少し伸ばす、夜の空気を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐く、イヤホンをぐっと両耳に押し込む、選曲はランダムに任せる、グッドミュージックを頼むぜ。
さあ、いこう
300メートル
もっと遠くへ、もっと速く走ろうとする足。あれだけ疲れていたはずなのにどういうわけか驚くほど身体が軽い。一曲目のキングクリムゾンのおかげって事にしておこうか。今夜はどこまででも走れそうだ。
500メートル
駅までの通勤ルートから少し外れて、公園へと通じる走りやすいお気に入りの道に入った。コースも、距離も決めていない。気の向くまま、足の向くまま走る。それがいい。野良猫も僕に呆れているのか欠伸をしている。野良のくせに肥りやがって、お前も走らないと健康診断ひっかかるぜ。なんてね
700メートル
少し足に違和感を感じる。早く走り出したい気持ちのせいでストレッチが十分ではなかったのか、思わず舌打ちをしてしまった。落ち着こう。イヤホンからエンヤがそう歌いかける。
800メートル
無理をしてはいけない。走ることの喜びを、この先もずっと味わいたいのなら、無理をしてはいけない。ただ、立ち止まる事はしない。ゴールするまで進み続ける。それはもう、絶対的なルール。右足の違和感を払うため、歩きながら調整する。慣れたもんだ。腿を上げ二、三歩、そして軽く振っただけで右足はGOサインを出した。もう大丈夫だ、さあ、いこう
830メートル
信号だ。もうすぐ点滅する青信号だ。渡り切れるか、もうすぐ点滅してしまう、まだか、ダメか、渡り切れるのか、まだか、青になったばかりなのか、いやもうすぐ点滅するだろう、点滅しないのか、青のままなのか、点滅はまだか。点滅した。立ち止まる。それは絶対的交通ルール。
850メートル
靴紐がゆるい。ほどけたら危ない。立ち止まる。
900メートル
ここの焼き鳥屋はとてもうまく、ささみ明太が最高だ。ここでは生ビールではなく瓶ビールを注文する。なんとなく瓶ビールが合う。瓶ビールを小さなコップに注ぎ、空きっ腹に一口飲んでお通しのキャベツに辛味噌をつけて食べ、コップの残りのビールを飲み干す。最初に注文した焼き鳥数本が来るまでに瓶ビールを一本空けてしまうので、焼き鳥が来たタイミングでもう1本瓶ビール、気分次第では次は生ビールにする。生ビールは生ビールでやっぱり不動のうまさというか瓶ビールとは違ううまさで、ビールというのは瓶だろうが生だろうが缶だろうが第3だろうがビールは最高で、ビールが冷蔵庫にあるというのは、やはりそのビ
1000メートル
靴紐がゆるい。ほどけたら危ない。立ち止まる。
1200メートル
平日の夜、駅のタクシー乗り場には二、三人の客が待っていた。立ち止まり深く屈伸運動をする。念のためウェアのポケットに入れてある千円札を取り出した。靴紐を結び直し、アキレス腱を伸ばす。タクシーの列を見る。雨が降って来たらタクシーで帰る。それはもう絶対的ルール。月が綺麗だ。雲すらない。深く屈伸運動をする。タクシーの列を見る。千円札を見る。月を見る。タクシーの例を見る。深く屈伸運動をする。夜の空気を大きく吸い込んでタクシーの列を見る。イヤホンからは誰かのシークレットトラックが始まるまでの無音がずっと続いていた。折り返し地点だ。さあ、いこう
僕は何故走るのか
きっと答えなんてない
答えなんていらない
ただ夜を走り続ける
きっと来月もまた
走るのだろう
小一時間ほど前に歩いて家に向かっていた道を
小一時間ほど前よりもすごくゆっくりと
歩いている
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