老婦人は新幹線で飴を配る(葱山紫蘇子)

あれは20世紀の終わりのこと、私は長距離恋愛をしていた。

私は大阪で実家暮らし、彼は東京で一人暮らし。バイトしてお金がたまったら、私が何日か遊びに行く。数日間の同棲生活を楽しんで、私は大阪へ帰る。たいてい夜行バスで行く。JR大阪駅前のバス乗り場から、東京は新宿駅へ。

何回か東京へ遊びに行き慣れたころ、金券屋で格安のチケットを買うことを覚えた。少しでも東京に長くいられるから、帰阪にはよく、平日昼間の新幹線を利用するようになった。

彼はフリーランスだったので、仕事の無い日は上野まで送ってくれた。若かった私は涙もろくて、何回行き来しても、別れ間際は涙をこらえるので必死だった。彼の前では泣きたくなくて、と書くと可愛らしいが、ほんとのところは泣き顔がむちゃくちゃ不細工だから見せたくなくて、ずっと我慢をしていた。

彼はいつも改札までついてきてくれる。ホームには上がってこない。どちらが言ったか忘れたが、自然とこうなってた。改札前、じゃあまた電話するね、仕事がんばってね、バイク気を付けてねと言って別れる。二人ともシャイなのでハグして別れを惜しんだりなどはしない。改札を抜けて私が振り返ると、彼はジャケットのポケットに手を突っ込んで立っている。軽く手を振り合う。たしか、いつも彼は笑っていたと思う。私はどんな顔をしていたかは知らない。前を向くと、もう涙が出た。

新幹線の自由席、誰も座っていない対面座席の窓側にどかっと座る。タオルを出して顔を覆い声を押し殺してひとしきり泣く。ひとしきり泣くと、とりあえずしばらくは落ち着くから。ひとしきり泣いて落ち着いたころ、他の客も座席に増え、私のはす向かいには60代後半くらいの、細身のおばあちゃんが腰をおろした。

その頃の私は人としゃべるのは苦手なのに、よく知らない人から道を聞かれたり話しかけられたりする性質で、この時も話しかけられたら嫌だなあと、ぼんやり窓の外を眺めていた。新幹線が出発し、東京の風景が後ろへ後ろへ遠ざかって行くのを見ると、また悲しくなってきて、窓の方に顔を向けタオルで隠し、向かいの席に気づかれないように、静かに泣いた。

トンネルをいくつも抜けて富士山を通り過ぎるころ、ようやく落ち着いてきて、お茶を飲んだりトイレに立ったりした。トイレから戻ると、床にハンカチが落ちていて、座っているおばあちゃんに声をかけた。ありがとう私のだわありがとう、と、こちらが恐縮するくらいお礼を言ってくれた。しばらくして、そのおばあちゃんが話しかけてきた。

「あなた、飴なんか食べる?若い人はこんなの好きじゃないかもしれないけど」
と、飴でぱんぱんに膨らんだ小ぶりのポーチを開けてこちらに見せてくれた。悲しみで食欲が湧かず昼食を買うことを忘れていた私は、現金なもので飴を見ると、口の中に唾があふれ、お腹が急にすいてきた。
「え、でも、いいんですか?」
「いいのいいの。ちょっと買いすぎちゃってね。よかったら貰ってちょうだい。」
お礼を言って飴を一つ、つまみあげる。
「あら、そんな、一つじゃなしに、もっと貰ってね」
と、おばあちゃんは飴をわしづかみにして、わたしの手に持たせた。
私はびっくりして断り切れず、あ、ありがとうございます、と受け取った。

子どもの時によく食べたイチゴの飴をひとつ開けて、口に入れた。懐かしい甘みが、泣いて痛くなってたこめかみを緩ませた。

おばあちゃんと私はぽつりぽつりと会話を始めた。押しの強い人かと思ったが、そんなこともなかった。おばあちゃんは東京から、引っ越しして大阪に住んでいる娘さんとお孫さんに会いに行くところなのだそうだ。ありがたいことに私のことは余り聞かず、大阪のことをよく質問された。お孫さんとの再会を楽しみににこにこと話してるのを聞いてると、あっという間に新大阪へ着いた。

「私、知らない人とこんなにしゃべったの初めて。楽しかったわ。ありがとうね。」
おばあちゃんはそう言ってさよならと挨拶してくれた。今よりももっと気の利かなかった私は、
「こちらこそ、ありがとうございました!飴も!」
と、倒置法で言うので精一杯だった。

そのおばあちゃんが、私が泣いていたことに気が付いていたかどうかはわからない。けれど、おばあちゃんの飴と会話に、当時こんな言い方はしなかったけど、私はとても癒されたのだった。こんな帰阪はこの時一度きりだった。これがあったせいなのか、歳をとった私もたまに、知らない人に飴を配ったりすることがある。

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