私の知っているあの町の話(葱山紫蘇子)

 私はその区にある産院で生まれて1歳までそこで暮らした。両親はその区で喫茶店兼スナックを経営していたが、3人目にして女の子が生まれたので、大阪市外に戸建てを買うことを決めたそうだ。私たち家族はスナックの2階に家族5人で住んでいた。住んでいたところは環状線の外側で、10歳まで住んでいた兄たちの言葉を借りれば「海側だけど山の手」だったそうだ。しかしそこは、歳をとって生まれた大事な女の子をここでは育てたくないと両親が考えるほどの、ガラの悪さだったそうだ。

 私が子どもだったころの1970年代半ばから1980年代のその町は、駅を降りると小便と汗のすえた匂いがあふれ、駅前には一斗缶の焚火や廃車がよく燃えていて、ホームレスたちがぼろい毛布をかぶって引きずって歩いていたり道端で寝ていたり、吸い殻や空き缶やドラム缶やその他もろもろの不法投棄物がいたるところに落ちている、そんな町だった。

 私は1歳すぎで引越したが、スナックは引っ越さずに同じ場所で経営を続けていた。私が手のかかるあいだは、雇っていた女の子や父が店を回していたそうだが、夜に母が店に出ることもあって、そんな時は母方の祖母が泊りで手伝いに来てくれていた。祖母は優しく面白いおばあちゃんだったが、父のことをあまりよく思っていないようで、祖母と父が話している姿を、私は覚えていない。

 私が幼稚園に通っていた頃は、店は繁盛していたそうだ。近くに大きな工場があり、その工員たちが、昼はカレー、夜は飲みにと利用していたらしい。私が少し大きくなり赤ん坊ほど手がかからなくなると、祖母が来られない時、母と南海電車に乗り、一緒に店へ出勤していた。母が大好きだった私は、ちょっとしたお出かけ気分で嬉しかった。電車に乗ると、天下茶屋あたりで下り急行とすれ違うのだが、風圧でガラスがバンっと鳴って、いつもとてもびっくりしてたのを覚えている。

 駅について改札を出ると、母は必ず手をつないだ。母はとても早足で、私はたいてい小走りでついていった。道端で寝ている浮浪者を見て、「なんであのおっちゃん道で寝てるん?」とたずねると、母は「どうしてもこの毛布で寝たい、この毛布やないと嫌やってわがまま言うたから、おうちを追い出されたんよ。だから、○○ちゃんもわがまま言うたらあかんで」と言った。聞きたいことは他にもあったが、それ以上は聞えないのか面倒だったのか、聞いても答えてくれなかった。

 お店に行くと、最初は客席のすみっこで瓶のオレンジジュース(たぶんプラッシー)を飲んで絵本を読んだりして過ごしていた。そのうちお客さんが増えると、2階にあがり寝ていたのだろうと思う。というのは、行く時の記憶はあるのだが、帰りのことはあまり覚えていない。おそらく、父が自家用車で迎えにきて、寝ているうちに帰っていたのだと思う。

 少しだけ覚えている光景は、お店に出ていた綺麗なお姉さんが、トイレの前の洗面台でお化粧をしている姿だ。薄暗い店内だが、そこだけは明るい洗面台の蛍光灯の下、鏡に向かい大きなイヤリングをつけ、口紅を塗る。見ている私に気が付いて「なんで見てるのん?おもろい?」と微笑みながら話しかける。私は大きくうなづく。お姉さんは鏡の前で髪を整える手を止めることなく鼻で笑って、でも少し照れてるような表情をしていた。お店の女の子と言えば、後年、母から聞いた話だが、大阪の南の方にある遊郭から逃げてきた女の子を雇っていたことがあるらしい。そのお姉さんがそうだったかどうかはわからない。

 私が小学校に上がる前、店の近くの工場がなくなり客が減り、また、梅田に姉妹店を開店させたが上手くいかず、父が自分の兄弟の連帯保証人になり借金をこさえ、市外に買った戸建ては一時差し押さえられ(母が学資保険を解約し金を集め落札した)、ほかにもなんやかんやあり、店はたたむことになった。それと同じころ、父の帰宅が月一程度になった。帰宅の際は生活費を数万円だけ持ってくる。母は私のランドセルを買うためと、自宅近くの料亭旅館で、夜に働きに出ることになった。祖母が世話をしに来てくれたが、怖がりでまだまだ母が恋しい私は、「ランドセル買えたら、お仕事やめておうちにいてくれるのん?」と母や祖母に聞いて困らせていたそうだ。

 それから数年たち、私が小学校高学年のある日、酒の飲める年齢になったかならないかの兄2人が、その街で有名な飲み屋横丁の串カツが食べたいと、たまに帰ってきた父にねだり、仕事中の母をのぞく4人で電車に乗り行くことになった。

「そういえばお前は初めて行くなあ。絶対手え離したらあかんで」

「絶対やぞ、絶対離すなよ」

 と、父と兄たちからおどされて、こわごわ久しぶりに駅に降りた。相変わらず、小便の匂いがして道はタバコの吸い殻だらけだった。治安がマシになったせいか、夏だったせいか、燃えている一斗缶や車はなかった。

 初めて行く横丁は平日だったのに、とてもにぎやかでお祭りをしているようだった。夜なのに人通りが多く、飲み屋の赤い提灯がぶら下がり活気があった。中ほどにある将棋クラブは満員で、入口近くにカラフルな女装をしたおじいちゃんが将棋を指していた。そのおじいちゃんはその後も、そこに行くたびに何度か見かけた。プロの将棋指しだったらしいと噂を聞いたことがあるが、定かではない。

 兄たちが、ここに来たらこれや、と、横丁の端にある路地に入る。飲み屋と飲み屋の隙間の暗い路地を抜けると、屋根がある広い土場に出る。そこは紅白の垂れ幕でかこまれた弓道場だった。たしか1回千円程度で遊べたと思う。全くの初心者でも、手袋や胸当てをおばちゃんたちが手際よく取り付けてくれる。本格的な和弓だ。そしておばちゃん達の指導の元、的を狙って矢を放つ。的に当たるとおばちゃんの一人が太鼓をドンと鳴らし、「あた~り~」と言ってくれる。遠山の金さんのやつや…と子どもながらに思った。私が放った矢は何本か的に当たり、「お嬢ちゃん、スジええよ。」「娘さん習わせたらええねん。」とおばちゃんたちに褒めちぎられてとても嬉しかった。すぐに球が無くなるスマートボールよりも、弓道の方が好きだった。

 串カツ屋のキャベツは、子ども舌の私には苦く、串カツの味はあまり覚えていない。あとで父が、あそこの店、油悪いな胸悪いわーと困り顔をしていた。以前に閉めた店の近くに、おいしい串カツ屋があったらしく、今度はそこへ連れていけと、兄たちが父に話していた。

 中学生の頃、バブルがはじけたあと、ますます帰宅しなくなった父が、「わしな、今度テレビ出るねん」とご機嫌に帰ってきたことがあった。父は当時、手配師の手伝いのような仕事をしていた。早朝、職安にくる日雇い労働者に声をかけて集め、工事現場に運ぶ運転手。聞くと、その地区でドキュメント番組の収録があったらしく、それにちらっと映ったらしい。ビデオに録画し見てみると、確かに2、3秒だけ映っていた。父は、そんなの本当に売ってるのかと思うような変なデザインの毛糸の帽子をかぶり、タバコを吸いながら、明らかにカメラを意識してうろうろと歩き回っていた。思ってるより何倍もかっこ悪い父を見て、私は恥ずかしくなった。

 それから数年経ち、私が16歳の時に、その町で暴動が起きた。

 テレビでそのニュースを見ていた兄たちはどよめき、うおーええなあ!燃えとる燃えとるわーと、笑い手をたたき興奮していた。俺やったらこれも投げるのにいやもっとこうしてああしてどうする明日あたり見に行くか?と相談していた。暴動は数日続き、明日こそ行くか?いやもう終わるか、と話していたが、たまたま父が帰宅し、やめとけと兄たちをたしなめ、父にしては珍しく善行を施した。

 「俺、初めて“くん”づけで呼ばれたわ…」と小学校の転校初日、大きなカルチャーショックを受けたと話す兄たちにとってあの町は、自分たちの持つ暴力性を発散できる懐深い郷愁の町だったのだろうと思う。

 二十歳前後、お金の無かった私は、たまにあの横丁へ遊びに行った。飲み食いはあまりせず、展望塔に登ったり、弓道をしたり、安い古着を打ってる露店で500円の開襟シャツなんかを買ったりした。靴も買ったことがある。流行りのデザインなのに大量に安売りされていた千円の編み上げブーツは、履いたその日にソールが二つに割れて、笑い話のネタになった。

 弓道場は1998年ごろ火事になり、なくなってしまった。長くほったらかしで、何度か焼け跡を見にいったりした。物悲しい気持ちと、おばちゃんの太鼓とかけ声が心の中で響いた。

 二十代半ば、横丁のすぐそばに遊園地が建てられ、廃れ、行政の事業として芸術施設と団体の事務所などがテナントで入り、あの町と芸術がどう融合して行くんやろと楽しみにしていたが、残念ながらご破算になった。しかし、入居していた芸術団体のいくつかは場所を変え、いまでも根気よく活動を続けていて嬉しく思う。

 父と兄たちとは、母が死んだあとにいろいろあって仲違いし、十年以上会っていない。

 ここ最近であの横丁に行ったのは、3年ほど前。

 職場で仲良くなった、カナダからの留学生の女の子が、あの町にある温泉施設に行きたいとのことで、私の子どもも引き連れて案内をした。世界の大温泉を満喫し、写真を撮り、横丁では串カツではなく、その子のリクエストで寿司を食べた。展望塔は時間が無くて登らずに、その真下の宵闇の町をぶらぶらと歩いた。日本の何もかもが好きな子で、ピンク映画館の手書き看板を見つけると、子どもたちとここで待っててと言ったかと思うと、すごい速さで写真を撮りに行き戻ってきた。私が、このすぐ近くには日本有数の大きな風俗街がある、歴史も古く建造物が素晴らしいが今日は子連れの為行けなくて申し訳ない、しかしいつか見てもらいたいと思っている、町並みがとても美しいが悲しみのある場所で……と、スマホ片手に片言英語で説明すると、その子は神妙な面持ちで、ありがとう、と答えてくれた。貧困についての話を歩きながら少し話しあった。

 あの町の展望塔に登り町を見下ろすと、塔を中心に道がきれいな放射状に広がり、ビルが密集している様子がよくわかる。西に海が見え、晴れた日は水面がきらきらと輝く。東には公園と動物園があり、緑が美しい。道路にはゆっくり歩く観光客、小山のような空き缶を運ぶ自転車、呼び込みをするおばちゃん、車間距離つめつめで流れる自動車など。そこにはしっかりと人がいて、生活している。小便の匂いの届かない高い場所から、私は人々の息遣いを見る。

 たぶん、また、見にいくと思う。


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