BABY(インターネットウミウシ)
2時間35分。
「ベイべ、今のところ、レースに大きな動きは見られない。逃げ続けろ。」
僕は先頭で逃げ続けている。
もうすぐ山頂だ。体勢を低くして、下り坂に備える。
「あれ、聞こえてる?聞こえてるなら返事しろ、ベイべ。」
米部なんて苗字で生まれたばかりにこんなあだ名がついた。
『ツール・ド・奥の細道』3日目。
那須湯本温泉の殺生石の辺りから福島県の飯坂温泉までの150キロが今日のコースだ。
逃げ集団は僕を含めて5人。
僕なんかよりも全然先輩で、海外でも活躍していた人もいる。
逃げ集団の役割は、1位でゴールすることじゃない。
スター選手がたくさんいるメイン集団の中から飛び出して、走ることを「逃げ」という。
少人数の逃げ集団と、大人数のメイン集団という構図でレースが展開される。
メイン集団に追いつかれずに逃げ切ることも戦略のひとつだ。
だけど今日の僕の役割はペースを作るためだ。
メイン集団にいるエースがよきところで飛び出して優勝できるようにお膳立てをする。
それまで先頭を漕ぎ続ける。
無線で監督から「ベイべ、お前の仕事は終わりだ」と言われたらそこまでだ。
だから無線が来るまでのわずかな間、僕はジャージにプリントされたスポンサーのロゴと自分の顔がレース中継にたくさん映っていることを願っている。
逃げられるなら逃げ続けたい。
どこまでも、どこまでも。
この国を飛び出して、フランスやイタリアやスペインを漕いでみたい。
いや、どうしたって漕がなくっちゃいけないんだ。
でもそんなことを思ったって、耳に付けた無線が、犬のリードのようにグッと締め付ける。
逃げ切れるかな。逃げきれないか。
逃げんじゃねえぞ。絶対仕留めてやる。
双眼鏡で見上げた先にはスーツ姿で手を叩く奴らがいる。
沿道でバカ面さげてはしゃぎやがって。
たかがチャリが一台通っただけで、そんなには騒ぐんじゃねえ。
キャンピングカーのベッドの隅に置いた携帯が鳴る。ボスからだ。
予定通り、議員も市長も海外からのお偉いさんも来たらしい。
定刻になったらスイッチを押せ、と言われる。
ボスから『シークレットエージェントマン』という肩書きをもらった。
肩書きをもらったところで別にうれしくもなんともない。
ただキャンピングカーに爆薬を積んで、お偉いさんたちがいる坂の真下でだらだらしているだけだ。
時間になったらスイッチを押して、俺もみんなも、消えてなくなる。
どんな肩書きをもらおうが、大金をもらおうが、俺は俺だ。
次々と通り過ぎていく自転車をぼんやりと見る。
昔は好きだったのにな。
いつから何も思わなかくなったんだろうか。
スポーツも、映画も、落語も、音楽も、全てがどうでもよくなった。
どれも俺を救ってはくれなかった。
流行病のせいで家も仕事も無くなって、漫画喫茶にも泊まれなくなった。
だから公園のベンチで寝そべってラジオを流していた。
寝たら、死ぬから。
ラジオから呑気な音と共に「悪い予感のかけらもないさ」と叫ぶ声が聞こえた。
その場でラジオを叩き壊した。
元々その辺で拾ってきたボロだったけど、何度も踏んでアンテナもスイッチもどこかに飛び散った。
こんなものが無くたって生きていける。
こんなものを心の拠りどころにしているうちは、心が弱い証拠だ。
それよりも使命が欲しかった。大義が欲しかった。
ギャーギャー騒ぐだけの奴らと俺は違う。
俺はちゃんと、自分で考えて自分で行動を起こしている。
自分で自分を助ける術を身につけているんだ。
しょうもねえ命だったけど、ゆくゆくはこの国のため、世界のためになることなんだ。
痛みは伴うかもしれないが、全ては未来のため。成長痛みたいなものだと思って諦めてほしい。
スイッチに手をかける。
そこでキャンピングカーに何かがぶつかる音がした。
バイクがバウンドしながら坂を落ちていく。
センセイに怒られるだろうな。
ガードレールを飛び越えて、ずり落ちる時に考えていたことだ。
僕を含む逃げ集団5人が激しく接触し、クラッシュした。
僕はセンセイと呼んでいる先輩から譲ってもらったオレンジ色のバイクと一緒に坂から落ちた。
鬱蒼とした森の中、けもの道にキャンピングカーが停まっているのが見える。
僕は草むらに、バイクはキャンピングカーの天井に乗った。
割と派手に落ちたのだけど、どこも骨折していないみたいだ。
擦り傷だらけで血が出ているけど、まぁそれくらい。奇跡だ。
無線は全く動かない。たぶん壊れちゃっただろうな。
キャンピングカーのドアがゆっくりと開いた。
僕よりも少し上のひどく疲れた顔をした人が顔を出す。
追い詰められているような恨んでいるような、ひどく哀しい目をしている。
「すみません!あの、怪我とかないですか!」
「俺はないけど、あんた大丈夫?」
「大丈夫っす。あそこから落車しちゃって。でも擦り傷くらいなんで。あの、あれ取ってもいいですか?」
男は「え?」と言って、僕が指さした方を見る。
天井に乗ったオレンジ色のバイクを見て「あ、ああ。」と言い、おそるおそる登っていく。
バイクを降ろしてもらった。フレームは傷ついているけどタイヤもチェーンも無事だ。よかった。
バイクを撫で回しているのが変に見えたのか、男の人は怪訝そうな顔で僕を見ている。
「そんなに大事なの。それ。」
「はい。センセイ……あ、尊敬してる先輩から譲ってもらって。」
「へえ。」
「先輩、レース中の事故で、もう走れなくなっちゃって。それで、僕約束しちゃって。このバイクでツールとジロとブエルタ走るって。」
「何それ。」
「あ、レースっす。世界で一番有名な3つ。無茶苦茶っすよね。でもそれを楽しみに生きるって言われちゃって。なんか重てえっすよね。」
「軽いな。」
「え?」
「いや、思ったより、軽いんだな。このチャリ。」
「あ、はい。レース用のバイクなんで。あんまりレースとか見ない感じですか?」
「……昔は、見てた。」
「そっすか……。あ、あの、それじゃあ俺、戻るんで。」
「え、戻るって……戻って、また走るの?」
「はい、ケガもたいしたことないし。勝てないかもしんないけど、走りきりたいんで。」
「そうか……。走りきりたいのか。」
そこで無線に繋いでいたイヤホンから突然音楽が鳴り出して、思わず「ギャッ!」と叫んでしまった。
「ど、どうした?」
「いや、これ、何なんでしょ?」
僕は思わずイヤホンを男の人に差し出す。
男の人はおそるおそる耳に入れる。
「なんか、音楽流れてきて。落ちた時におかしくなっちゃったんすかね?」
男の人は、何も答えず、しばらくじっとイヤホンから流れる音楽を聞いていた。
しばらくすると無言でイヤホンを外し、キャンピングカーに戻って鍵をかけた。
何回声をかけても返事は無かった。
結局名前もロクに聞けなかった。後でちゃんとお詫びをしたかったのに。
サイドミラーを見ると、血だらけの選手が自転車を担いで走っていく姿が見えた。
服は破け、尻が丸出しになっている。
厄介なことになったなと思った。
顔も車も見られた。この場で始末するべきだったか。
でも出場選手だしな。定刻までにここを嗅ぎ回られるのも厄介だ。
あいつはまたレースに戻ると言っていた。
なぜだろうか、無性にレースが見たくなった。
俺には使命があるのに、この国のため世界のためにやることがあるのに。
あの血だらけの尻の行方が気になってしょうがない。
定刻まではまだ時間がある。
それまでだったらいいじゃないか。
どうせもうすぐ全部終わるんだ。
カーラジオを点ける。
波のようなノイズが鳴る。
しばらくつまみをいじっていると、うっすら中継の音が聞こえてくる。
周波数が合っていないのか、別の局の音楽も混線している。
ラジオのボリュームを上げ、中継に耳を澄ますと、レースは終盤に差し掛かっていることがわかった。
あの尻の選手を含めた5人の逃げ集団が落車してから、メイン集団でも動きがあったようだ。
そこでまたラジオが混線する。
どこかの局で流れている音楽が大音量で流れ出す。
BABY
さっきもあのイヤホンから聞こえた声だ。
また流れやがって。
愛しあってるかい?
ふざけんな。
今そんな状況じゃねえんだよ。
BABY
うるせえよ。ライブ版かこれ?
中継が聞きたいんだよ。
愛しあってるかい?
あの尻の選手がどうなったか知りたいんだよ。
あいつが無事か、ちゃんと走ってるか、教えておくれよ!
いてもたってもいられず、俺はキャンピングカーから飛び出した。
沿道の、人の声がする方を頼りに走る。
汗だくで沿道にたどり着いた時、もうレースは終わったのかみんな帰り支度をしていた。
やっぱ、ダメだったか。
定刻のこともスイッチのことも忘れて走った俺がバカだった。
何やってんだよ。
キャンピングカーに戻ろうと思ったその時、オレンジ色の自転車が猛スピードで通り過ぎて行った。
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