今日(大伴)

メトロは朝から真っ暗だ。車窓にぶらぶらと揺れる手首が明るみに溶け、高速で過ぎゆく人々がやがてゆっくりと止まる。ターザンロープの軌跡で人の頭にぶつからぬよう、俺は笹舟を浮かべるかのごとくそっと吊革をはなした。LEDライトで冷たく染まったホームに乗客がのろのろと降りはじめる。大丈夫、俺も降りるから圧力をかけないでくれ。

通ろうと考えていた自動改札を瞬時にチェンジし、別のところを抜ける。自分の前の人が残高不足でひっかかるシステムを俺は熟知している。運命が操作しているからだ。さきほどの改札では予定通りピンコンという音が鳴っている。ほらね。運命が油断している隙にすばやくやるのがコツといえばコツだ。

駅と会社の中間にあるコンビニに寄る。袋いりません、と告げたタイミングで店員がちょうどレジ袋を用意してしまった。宣言した手前「やっぱください」とは言いづらく、クシャリと広げられた袋はそのままカウンターの下へと隠されていった。

打ち合わせの最中、自分の唇からはからずも「チッ」という音が出てしまった。相手に舌打ちをしたと勘違いされては気まずい。俺はトークが明るい話題になったタイミングを見計らってわざとさきほどと似た「チッ」を鳴らした。「あ、この人は唇が鳴っちゃうタイプの人間なんだな、さっきのは舌打ちじゃなかったんだな」と気付いてもらえただろうか。最大限のフォローはしたいところだ。

PUSHかPULLかわかりづらいドアを強引に開け、ATMで昼飯代をおろす。機械がいつまでも「オトリワスレニゴチュウイクダサイ」と言い続けるので、見落とした取り忘れがあるのかと不安になってチェックしたが、取り忘れはなかった。

定食屋に入る。カウンター下の荷物置きがひどく浅い。ダウンジャケットを半分つっこみ、半分は太ももにのせる。味噌汁のおかわりが自由と書いてあるのでお願いした。おかわりが届くとほぼ同時に厨房の奥から「味噌汁たりねーよ!」という怒号が聞こえた。俺は複雑な心で、そこまで絶対に飲みたかったわけでもないおかわりを大人しくすすった。

トイレで手を洗った際、ズボンに水が一滴はねてしまった。不幸にもデリケートな位置に染みたその一滴は、見ようによっては用の切れが不充分だったために起きた汚い事故だと勘違いされてしまうかもしれない。ここは逆転の発想。俺は濡れている手をズボンに振り、あえて水滴の数を増やした。しぶき感が強まれば手洗い後をイメージさせやすくなるからだ。ヴィジュアル・コミュニケーションである。


数字を全角で入力させるフォーマットにいらいらしているうちに夜になったので帰る。


通過列車の窓が8mmフィルムのように俺を映し終えると、追突しないか不安になってしまうほどに狭い間隔で各駅停車がすべりこんでくる。空いているとも混んでいるとも言えぬこの時間帯の雰囲気は、精神衛生上とてもありがたい。メトロは夜も真っ暗だ。

途中駅でカップルが乗ってきた。男が女の腰に手をまわしながら頭皮のにおいを嗅いでいる。席をつめてやったが二人は座らず、俺はただ横の老婆にすり寄っただけの人間になってしまった。

車内はまるで死後のように静かで、床をころがる一本の缶だけがコロロロと小さな音をたてている。そ知らぬフリを決めこんでいる乗客たちは皆、自分の足元へだけは缶が転がってこないでくれと祈っている。熟睡した中年男性の頭脂が車窓に無限マークを描いた。

最寄駅のコンビニで買い物をする。カウンターに置かれた箱からクジを引けと言われる。チキンやドッグが当たるのだろう。自分の場合はどうせ当たらないので断ったところ、ブルーグリーンがかった金髪の女性店員は決まりなので引けと迫ってきた。そこまで言うならば仕方ないとクジを引いたところ、「20円引き」と書いてあった。

日中の暖かさと比べ、夜はまだまだ寒い。大きく吸い込んだ冷気が鼻水で止まる。熱すぎる缶コーヒーを不器用に口へ運ぶと、前歯に当たったプルタブがまぬけな音をたてた。ありったけの甘白い息を吐いたところで信号が青に変わる。信号機のマークの人はどうしてハットをかぶっているのだろう。

不可解なほど目立たないところに設置されている公園のベンチに座る。帰宅しても一人だが、ここはなぜかより深く一人の時間に浸れる。缶コーヒーを置き、マルボロライトに火をつける。千回以上は眺めているローラー式のすべり台が、地上の草を食む恐竜のように今夜もたたずんでいる。

腕時計を見ると23時47分をさしていた。俺は(まだ今日か)と思い、その考えに少なからず違和感をおぼえた。逆に0時をまわっていたとしても(明日になったな)とは考えない。23時だろうが0時過ぎだろうがその瞬間はいつだって今日であり、自分はこのまま永久に今日にいるのである。なんつって、親指と中指でつまんだ最後のひと吸いをななめ上に吹き、もみ消した吸殻を箱とビニールのあいだにねじ込む。冷たい鉄の円柱と化したコーヒー缶をつまみ、俺はゆっくりと立ち上がった。

今日は火曜日。明日は水曜日で、そのつぎは木曜日だ。

(終)

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